[巻頭エッセイ]
ぼんやり生きてきた
モノカキは歳をとってくるとしばしばモーローながら脈絡なく自我にめざめ、自分はいったい何者なんだ、などということを考えるらしい。そのひとつの方向は自分の一族を真剣に考え、そのなかで自分はどういう存在だったのだろう、ということを追求することらしい。ぼくにもそういう「めざめ」がきた。発端は、その年、身の回りにいろいろ厄介なことが多発したことだ。
連載小説を書いている雑誌の編集担当者にそのことを話し、どうも危険なんだ。歩いていくといきなり一歩先に穴があく予感がする。だからその一メートル手前で進路を三十度ほど変える。あまり角度を大きく変えすぎるとほかの町に行ってしまうからのう。
ある日はクルマを運転していたら高速道路で追突してしまった。初めての交通事故加害者だった。双方怪我はなかったけれどいろいろ損失が大きかったなあ。
せんだっては二十年履いていた靴の底が抜けてしもうた。珍しいじゃろう。
「履きすぎです。ほかに靴あるでしょう」
と美しく眉をひそめながら担当の編集者は言った。
先日は近所の公園で木を見ていたらふいに犬のリードを持って登りたくなった。編集者の困惑している顔がわかる。
いまその編集者と組んで「人間の死」のことを取材し連載している。ここんところその追求テーマに行き詰まり、我ながら自分の人生にも行き詰まっている。
「こうなったら御祓いに行きましょう」
編集者はキッパリ言った。御祓いなどいままでやったことがない。このところは死のテーマを追求しているから寺とか納骨堂とか四十万人の細骨でつくった仏様などをおがみに行ったりして仏関係のつきあいが多く、ここらで少し神様方面の様子を窺っておくのも大切なことかもしれない。
初めて御祓いに行くのなら自分が生まれて初めて父母とお宮参りにいった神社がいいだろう、ということになり戸籍抄本をとりよせ正確に自分の生まれた家を調べた。世田谷区三軒茶屋三丁目。近くに大きな神社が変わらず存在していた。
生家のあったところは何軒かの家に分割されていたがけっこう大きな敷地だ。かすかに記憶にあるそれは石垣にぐるりと囲まれた家だった。
五歳になる頃までその家にいた。石段を少しおりたときにむこうからMPのジープが走ってきて、それを見て泣いたことがたぶんぼくの最初の記憶だ。
かなり大きな家に兄弟、叔父、叔母と暮らしていた。父は当時まだ少なかった公認会計士をしており、髭をはやしサムライみたいだった。お得意さんのところへ羽織袴でハーレーダビッドソンに乗ってすっとばしていたらしい。
おれの親父だなあ、とその話を聞いて思ったものだ。知らないうちに叔父、叔母、兄弟の殆どは死に、異母兄弟だったことがわかった。
御祓いに行った神社に過去帳がないか、編集者が聞いていた。五十年で始末するという話だった。
その家でぼくはどう育ち、どういうものを見ていたのか。家のまわりに大きな松の木が何本もあった、という記憶はあったので、上を眺めるとたしかに何本も高い松の木があった。
御祓いは約五分で終わった。ご神託は何もなかった。
ぼくが五歳のときにバタバタと逃げるように引っ越した理由はわからない。父親はどんどん衰えていって、尾羽打ち枯らすようにいわゆる「みやこおち」そのもので千葉の山奥の貸家に越し、ぼくは玄関前にあった紅葉の木に登って、家の正面にある警察署長の家の同じ歳ぐらいの子と、その上から二人で小便をして警察署長の奥さんからおこられてばかりいた。
相当な田舎で「
「むじな月」が出て怖がられていた。オボロ月夜に本物の月とは別の方向におぼろなもうひとつの月が出る。叔父さんがオート三輪でぼくの家にやってきて「おっかねえ」と言っていた。
ある日、馬車の荷台に乗った花嫁さんが家の前をとおりぬけ、ぼくはそれを見てショックをうけた。家の中の狭い部屋にとじこもり
酒々井に越してから弟が生まれた。都会の高校、大学に行っていた姉、兄が戻ってきて、家は狭くなり幕張に越した。そうしてぼくは半農半漁の海べりの町に住むようになった。すぐに小学校入学。海べりの町は空が広く、いつも風が高い空を走っていて、ぼくの黄金の少年時代がはじまった。
集英社の編集者チームとビールを飲みつつその体験的連載小説を書くことが決まった。『岳物語』からはじまった私小説は、そのビール会議のときに『家族のあしあと』というタイトルまで決めてもらって終焉を得た。
書かせてくれてありがとう。
椎名 誠
しいな・まこと●作家。
1944年東京都生まれ。著書に『岳物語』『犬の系譜』(吉川英治文学新人賞)『アド・バード』(日本SF大賞)『大きな約束』『家族のあしあと』等多数。監督映画に「白い馬」(日本映画批評家大賞最優秀監督賞ほか)等。