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村山由佳が伊藤野枝の生涯を描く
『風よ あらしよ』刊行記念インタビュー

[特集インタビュー]

自由に、動物的に、嵐を求めるように生きられたら

〈吹けよ あれよ 風よ あらしよ〉
村山由佳さんの新刊のタイトルは、婦人解放運動家で作家の伊藤野枝いとうのえの言葉から取られています。家父長制下における結婚制度や良妻賢母思想に反発し、女性の自立や連帯を掲げて積極的に活動した野枝。大正デモクラシーを牽引していた同志であり、三番目の夫でもあるアナキストの大杉栄おおすぎさかえとともに、関東大震災の混乱に乗じて憲兵隊に殺されました。嵐のように時代を駆け抜けた野枝の二十八年の生涯を、村山さんはどんなふうに捉えたのでしょう。
『風よ あらしよ』の執筆をめぐり、インタビューさせていただきました。

聞き手・構成=三浦天紗子/撮影=露木聡子

野枝の人生を、
他人事だと思えなかった

─ 六百五十ページを超えるボリュームがありますが、長さを感じさせないテンポのよさと熱量で、一気読みでした。伊藤野枝を知る人にも知らない人にも届けたい作品です。最初に、村山さんがなぜ野枝に惹かれたのかをうかがってみたいのですが。

 実は私自身が興味を持つより先に、周りの編集者のみなさんが、野枝が面白い、面白いって言い出したんですね。「村山さんにぜひ書いてもらいたい」と。五十年以上も前に瀬戸内寂聴さんが大杉栄と伊藤野枝についてお書きになった『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』は、あれはかなり評伝寄りの作品だと思いますし、いったいどういうところを見て、私に書けと言われているのか、すぐにはわからなかったんです。けれど、野枝について少しずつ話を聞いたり読んでみたりするうちに、ああ、彼女の人生はなんだか他人事と思えないなと感じるようになって……。(ここで周囲から笑い声)ん? なぜ今笑いが起きる?

─ 恋多き女性であるとか、筆一本で身を立てていくとか、生き方が似ていると感じるファンはいそうです。

 言ってみれば、私から言い訳を取り払ったのが伊藤野枝だと思ったんですよね。『ダブル・ファンタジー』や『放蕩記』などは私自身の個人的な体験がベースですが、そうしたひとつのサンプルがちゃんと普遍性を持つようにしなくてはと、書き手としては考える。ただ、ていねいに心理描写すればするほど、自己弁護めいたものが挟まってきて、アンビバレンツな気持ちにもなりました。ところが、現代の人間よりもずっと苛烈に社会道徳や女性差別と闘った、伊藤野枝という女性の生き方を書くのであれば、それはもう事実なのだから、ためらったり曖昧にしたりすることなく、これまで書けなかったことも書ける気がしたんです。実際、自分といくら重なるところがあっても、野枝のようにはなれない。いい意味で自由で動物的で、あんなふうに嵐を求めるように生きられたらいいなと憧れました。ただ、あまりにもはちゃめちゃな人なので、読者にこの人を好きになってもらうにはどうしたらいいだろうと、そこは強く意識しましたね。

─ 物語の幕開けは大正十二(一九二三)年、関東大震災が起きて街が大混乱していたときです。そんなさなかに、野枝は大杉と幼い甥と外出先で憲兵隊に連行され、その日に虐殺されます。震災が九月一日、連行され殺されたのが九月十六日でした。

 野枝は、たとえば同時代に生きた『青鞜』の初代編集長・平塚ひらつからいてうほどには知られていません。いきなり子ども時代の話をしても、読者が彼女とあまり親しくなれない気がしたんです。なので物語の冒頭で、国家権力によって無慈悲に捕らえられたことを知ってもらおうと考えました。じつは連載の準備に二年、もっとかな、三、四年くらい着手できなかったんです。自分に評伝小説なんて書けるんだろうか、知らない時代の空気を描写できるんだろうかと逡巡して。あるとき、連行の間際に目撃されたのは果物屋で、幼い甥っ子は赤いリンゴを持っていたというのを知って、とたんに絵が浮かび、その勢いで「これで書ける!」と踏み出せました。震災で焼け出された人たちがみんなぼろを着ているようなときに、野枝は着る物をみな人にあげてしまって、よそ行きの洋装しか持ってなかったと言います。それで街で悪目立ちしていたらしいけれど、死への道行きに白い洋装だったという偶然……そういうのもドラマチックですよね。

─ 野枝の視点だけでなく、各章で別の人物の語りも取り入れられています。野枝が見ていたものとは違う角度から事態が見えるので、それが物語の深みにもなっていると思うのですが、この構成にしたのはなぜですか。

 野枝はそれほど多くの著作を残していません。なので、のちに生き延びた人たちの口を借りてしか彼女の実像が残っていないのですが、周囲の人たちが語る野枝像がとても面白かったんです。資料を当たっている段階から、そのわくわくする感じを小説にも持ち込みたいなと思いました。それで連載でも、必ず野枝の視点プラス、野枝を見ている誰かの視点、その両方を織り込んで書くことにしたんです。たとえば幼少期なら、野枝と、野枝の母ムメの視点というふうに。その方が重層的になるだろうと思いましたし、実際、そのやり方にして、物語がなめらかに転がり始めました。

既存の良妻賢母像を
蹴散らして生きる

─ 野枝は、親の決めた最初の結婚からは早々に逃げ、次に、教師であった辻潤つじじゆんのような「自分を導いてくれる人」を、三番目には大杉のような「男と女である前に同志である人」を選びます。彼女の恋愛についてはどう思われましたか。

 決して、あの男の人を利用してやろうと近づいていくわけではないのに、ポーンと恋の沼に落ちて、その相手の持ついちばんいいものを自分のものにして次に行くのが野枝です。辻は「自分を踏み台にして行け」と、いかにも頭のいい男が言いそうな言葉を野枝にかけるけれど、実際、『青鞜』以外の場では、男性ばかりのコミュニティーの紅一点のような形で関わり、女性の人権などないも同然の時代に、いろんな男の背中を踏んで自分を高めていった。辻は、大杉以外でいちばん野枝と深く関わった人物で、彼がいなかったら野枝は大杉とも出会うことはなかったし、そうしたら大杉の人生もまた、ああではなかったでしょう。そう思うと、大杉よりも辻との出会いの方が、大きな出来事だったのかもしれないです。

─ 野枝は、男性の中にいるとすごく存在感を放つ一方で、女性の中に入ると、何かわだかまりを抱かせてしまうようなところがありませんか。

 当時の女性が我慢していたことを、ほとんどあの人は我慢しない。妻として、母として、やらなきゃいけないと思われていたようなことも、夫や人まかせ。自分でやらなかったんです。

─ 汚れたおむつからうんちを取って、窓から捨てるというあのシーンすごかったですね。

 資料にあるんですよ。おしっこしたおむつは干してまた使えばいいのよ、と言っている。子ども時代の不遇から〈どげんことがあっても、うちは、自分の子どもば人にやるようなことはせん〉と思っていたはずなのに、辻との間のふたりの子は置いていくし、大杉との間の五人の子どもも、赤ん坊はとにかくお乳さえやっておけばいいみたいな、過剰に合理的な子育てで。女性たる者こうあるべきというところをことごとく彼女がすっ飛ばしていくから、同性から見たら、同じ女と認めるのは自分たちの価値観を乱されると思うんでしょうね。

─ 〈新しい女〉と呼ばれた文学者には平塚らいてうや野上弥生子のがみやえこなどもいたわけですが、野枝ほど野放図ではなかったかもしれません。

 ただ野枝の書くものや資料を読む中で、あるときぐっと彼女が近く思えたことがあったんです。当時の「婦人公論」に寄せた随筆だったかな。炉辺の幸福みたいな部分と、自分の活動や信条の部分、その間にあって、子どもに囲まれた大杉との生活があまりにも幸せであればあるほど、自分の中の何かが鈍っていってしまう。そんな弱音を書いていたんです。そういう感覚は男女問わず普遍的な気がするし、私自身も「とがっていないと小説家としてダメになるのではないか」と思っていた時期もあるので。それを読んだときに、ああ、いいなって。彼女がいろいろ学んで頭で考えた文章よりも、女性として、人間としての本質的な弱さや温かみがにじみ出ている。この部分は後半の核になるなと感じました。

─ それにしても、暮らしぶりも世相も現代とは違うわけで、資料を踏まえながら物語にするのは、まるまるフィクションで書くのとはまた違ったご苦労があったのでは。

 資料もエピソードも膨大で「机が狭い!」と思いました(笑)。この小説に必要かどうかで取捨選択したのですが、視点人物にそれぞれかなり感情移入もしてしまい、大変でした。大杉の妻の堀保子ほりやすこや恋人の神近市子かみちかいちこの印象は、書くことでずいぶん変わりましたね。野枝とはそれほど関係がないけれど、個人的に惹かれたのが、平塚らいてうと、一時期『青鞜』の表紙絵を描いていた(尾竹おたけ紅吉こうきちとのエピソード。これは捨てられませんでした。また、大杉の世話役のようだった村木源次郎むらきげんじろうは、世の中はシニカルに見ているのに女子どもには優しくて、その保護欲が大杉に対してまで発揮されるようなところがあって、いちばんの推しです(笑)。その村木が、大杉と野枝の長女の魔子まこに、別れと言わずに別れを告げる場面。そんな資料はどこにもないわけですけれども、でも「ない」という明確な資料がない限り、矛盾が生じない範囲で創作として書いた部分もいろいろあります。

─ 第二十章の「愛国」は連載のときにはなかった章だとか。

 東京憲兵隊大尉の甘粕正彦あまかすまさひこは大きな役割を果たす人物なので、彼がアナキストたちに対してどういう心情を持っていたかという視点は欠かせないだろうと思い、加筆したんです。でも、私にとっては本当に想像しにくいタイプで、彼には彼なりの信念があったのだろうというのを、裁判記録を基に考えました。

野枝が目指したのは、
連帯と自治による社会

─ 野枝は女性や弱者のために率先して声を上げていきますが、今も誰かがまず声を上げ、問題が可視化されていきます。現代ともオーバーラップしますね。

 野枝は、故郷の福岡にいて社会問題への興味も知識もなかったころに、村の〈組合〉という、助け合いつつ自治していく組織のありようを経験しています。実はそのことが、のちのち非常に大きな意味があった気がするんですね。社会主義の本質のようなものを体に染みこませていたのも同然で、ただ社会主義にかぶれていた運動家とは違うところでしょうし、そこに彼女の草の根の強さがあった。知識を振り回すだけではないパワーの源になったのだろうと思います。この作品は、資料を読みこんだ上で、野枝の人生を「小説」として書き上げるという、チャレンジの場になりました。実在の人物を題材にしたのも、現代ではない舞台にしたのも初めて。私の最長編ですし。

─ 初めて尽くしなんですね。とはいえ、恋愛の機微やラブシーンの描写は、やはり村山ワールドだなと思いました。

 それでないと村山由佳が書いた意味もなかろうかなと思いますので(笑)。多くの読者に、むしろ今を描く小説として楽しんでいただけたらうれしいです。

村山由佳

むらやま・ゆか●作家。
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。著書に『ミルク・アンド・ハニー』『燃える波』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『ありふれた祈りおいしいコーヒーのいれ方 SecondSeason IX』等多数。

『風よ あらしよ』

村山由佳 著

9月25日発売・単行本

本体2,000円+税

明治・大正を駆け抜けた、アナキストで婦人解放運動家の伊藤野枝。生涯で3人の男と〈結婚〉、7人の子を産み、関東大震災後に憲兵隊の甘粕正彦らの手により虐殺される──。その短くも熱情にあふれた人生が鮮やかによみがえる。

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