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書評家:大矢博子が読む
西條奈加『心淋し川』
江戸、千駄木。ささやかな人の営みを描く、
滋味溢れる連作

[本を読む]

ささやかな人の営みを描く、
滋味溢れる連作

 半村良の『どぶどろ』を思い出した。社会の底辺で暮らす人々を、どぶの泥にたとえた名作時代小説である。ただし本書はどぶではなく、よどんで濁った川だ。
 舞台は江戸。千駄木の淀んだ川沿いに建てられた貧乏長屋に暮らす人々の営みが、連作の形で描かれる。
 長屋といっても、打ち捨てられた空き地に勝手に小屋を建てて住んでいるというのが実情だ。住民は訳ありばかり。暮らし向きが楽な者はひとりもいない。
 働かない父を抱えた娘が、恋人と一緒に今の生活から抜け出ることを夢見る表題作。四人のめかけが住む家で、お呼びのかからない最年長の女が思わぬ生き方を見つける「閨仏ねやぼとけ」。行き場のない板前が死んだ兄貴分のあとを継いで四文飯屋を切り盛りする「はじめましょ」。体の不自由な息子の世話が生きがいになっている母のゆがみが恐ろしい「冬虫夏草」。同じ岡場所から異なる道を進んだふたりの女性の対比で読ませる「明けぬ里」。そして最終話「灰の男」は、この長屋の差配人の物語だ。
 同じ場末に流れてきた人々だが、それぞれに抱えているものが違う。興味深いのは、不遇な状況にありながらも一発逆転を狙うのではなく、この場所でやりなおそうとする姿を描いている点だ。
 出ていく機会があったのに、とどまることを選んだ主人公がいる。たまたま就いた仕事にやりがいを感じる者もいる。他人をねたむこともあるけれど、だからといってそれは現在の否定ではない。今の境遇でできること、今の境遇だからできることを、彼らは見つけていく。
 確かに淀んだ川は汚いし、臭う。だがそんな町を指してある人物はこう言う。
「生き直すには、悪くねえ土地でさ」
 なぜか。人の営みがあるからだ。ささやかな喜びと悲しみが詰まっているからだ。淀んだように見えても、中で懸命にうごめいているのがわかるからだ。
 その集大成が最終話である。差配人がずっと抱えていた心の淀みが浄化される様子は、実に胸に染みる。
 温もりが静かに心を満たす連作だ。

大矢博子

おおや・ひろこ●書評家

心淋うらさびし川』

西條奈加 著

9月4日発売・単行本

本体1,600円

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