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今月のエッセイ/本文を読む

『東京裏返し 社会学的街歩きガイド』吉見俊哉
鬼子母神、飛鳥山、湯島…。都心北部を歩いて
見えてくるものとは。

[今月のエッセイ]

東京を「裏返し」てみたら……

 東京を裏返してみたら、何が見えてくるだろうか? 真っ先に裏返してみたいのは、都心の首都高速道路である。
 実はこれは簡単で、日本橋船着場から日本橋川や神田川を周遊する都心クルーズ船に乗ればいい。大手町の超高層ビルのすぐ脇、絡まり重なる高速道路の裏側を見上げ、明治以来の石橋をくぐり、江戸時代からの石積みの岸壁を横に眺めながら日本橋川の川筋を進むのはスリリングな体験だ。神田川では、御茶ノ水近辺の深い堀からの風景が圧巻で、下から見上げると中央線や総武線のホームも、聖橋ひじりばしもはるか上空、丸ノ内線の車両が通り過ぎるのを下から見上げるチャンスもある。川筋の多くのビルは入口を道路に向けているので、川からだとビルの裏側ばかりを眺めていく。裏返しの東京はしかし、表からだけの東京よりも驚きと発見に満ちている。
 東京の裏返し方は他にもある。凹凸に富んだこの都市には、様々な歴史の地層が露出している。東京は、三回占領されてきた都市である、というのが私の認識である。最初の占領は一六世紀末、徳川家康がここに江戸城を築いたときに起きた。第二の占領は一八六〇年代末、薩長軍がここから幕府の残党を駆逐したときに起きた。そして第三の占領は一九四五年、米軍による占領である。この占領の度ごとに、占領者と被占領者の関係が、この都市の風景の中に刻まれていった。
 この最初の二回の占領が東京にもたらした変化を、上野ほど如実に教えてくれる場所はない。かつての石神井川しやくじいがわは上野台地の根元の部分に当たる飛鳥山あすかやまを抜けて隅田川に流れ出るまで、右に折れて支流が不忍池しのばずのいけに至っていた。縄文時代、東京湾は今よりはるかに広く、不忍池まで入り込んでいた。つまりそこは「忍ヶ丘しのぶがおか」(上野台地)と「向ヶ丘むこうがおか」(本郷台地)という二つの岬に挟まれた入江だったわけで、海産物も豊富に獲れたであろう、多くの太古の民が集住していた。その痕跡は、今も上野公園の中に散在する古墳群に示される。
 徳川政権は、僧天海てんかいに命じてここに絢爛けんらんたる宗教都市を出現させる。江戸城から見て鬼門の方向に建てられた東叡山寛永寺は、東の比叡山という意味を持ち、不忍池は琵琶湖になぞらえられていた。その境内地たるや三〇万余坪、天皇家から住職を迎え、御三家並の権威を誇った。しかし、その寛永寺境内の崖の下の小さな稲荷には、被占領者たる徳川以前からの住民の痕跡が今日まで残されている。
 徳川家にとって最重要の寺院だった寛永寺は、それゆえに明治国家には徹底的に抑圧される。幕末、彰義隊がここに立て籠もったことは、寛永寺にとって半ば必然でありながら、苦難の歴史の始まりだった。今日も上野公園の中にひっそりたたずむ彰義隊の墓は、最初は放置されていた隊士たちの遺体を、見かねた千住せんじゆの寺の僧が葬り、やがて小さな墓のような目印が建てられたことに始まる。ここに正式に彰義隊の墓が建てられるまでにはなお十数年が必要だった。その後、上野は博覧会用地となり、博物館や美術館、動物園が集中していく。この「近代の展示場」としての上野が目論んだのは、徳川の記憶をこの地から抹殺してしまうことだった。
 だが、今日の上野公園を注意深く歩くならば、記憶の抹殺などできなかったことがわかる。近代的な諸施設の隙間にではあるが、上野東照宮をはじめとする寛永寺の文化遺産が、かつてここがどのような場所であったかを示し続けている。東京を裏返す歴史的方法とは、そのような江戸以来、時には明治大正以来の痕跡を注意深く巡ることで、都市の表層を覆う現在の裏側にある過去を再想像していくことである。
 つまり、私がまずここで主張しておきたいのは、「東京は裏返せる」ことだ。東京を裏返すには、街歩きをすればいい。ただ、どこにでもある手軽な街歩きガイドでは、この巨大都市を裏返してみる助けとはならない。この都市の現在という時間表面に漂う記号を追いかけて終わるだろう。その表面に歴史の裂け目を発見し、そこから地下に潜って東京を裏返していくには、特殊装備の街歩きガイドが必要となる。今回、集英社新書で出版した『東京裏返し 社会学的街歩きガイド』は、まさにそんな狙いから、ちょうど七日間で東京都心北部の様々な歴史的地層の隙間を旅するガイドである。
 第一日は、都電荒川線に乗って鬼子母神きしぼじん前から飛鳥山までを旅する。スローモビリティが都市の風景をどう変えていくのか、この辛うじて都心に残った路面電車が、いかに東京の未来への手がかりとなり得るかを実地で示す。第二日は、秋葉原から浅草までの旅で、いよいよ東京都心で路面電車を復活させ、首都高速道路を撤去する計画の全貌が示される。
 第三日は、上野公園で徳川以前、また寛永寺の痕跡をたどり、博物館と動物園の上野の風景を裏返していく。第四日は、谷中やなかの街を歩き、墓地や古い民家に息づく時間をどう未来に引き継ぐかを考える。第五日は、神保町と東大本郷キャンパスを舞台に「知の時間」について探究し、第六日は、神田明神、湯島天神、湯島聖堂、ニコライ堂などの社寺会堂の「聖なる時間」について考える。そして第七日は、川筋巡りをしながら「未来都市東京を江戸にする」方策を練った。
 本書は街歩きのガイドでありながら、都市の哲学的時間論と未来への政策的提案を含む。街を歩くことは、単に過去を振り返ることではない。それはありきたりの歴史物語への挑戦であり、都市の可能的未来の想像でもある。本書を、そんな歩く思考のガイドとして活用してもらえればと願う。

吉見俊哉

よしみ・しゅんや
1957年東京都生まれ。社会学者。東京大学大学院情報学環教授。著書に『戦後と災後の間――溶融するメディアと社会』『五輪と戦後 上演としての東京オリンピック』『大学という理念 絶望のその先へ』等多数。

『東京裏返し 社会学的街歩きガイド』

吉見俊哉 著

集英社新書・発売中

本体980円+税

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