[今月のエッセイ]
「目」と「耳」と灼熱の大地と
「目」と「耳」は違う—そんな当たり前のことを改めて思い知らされた。
摂氏四五度。二〇一一年に独立を果たした南スーダンはアフリカ大陸の中で最も暑いと言われる「酷暑の国」だ。
二〇一二年から、その地には日本の陸上自衛隊が平和維持活動(PKO)の一環として派遣されていた。
ところが二〇一六年七月、その南スーダンの首都ジュバで大規模な戦闘が勃発する。
もともと仲の悪かった、民族の異なる大統領と副大統領が巨大な石油利権をめぐって対立し、政府軍(大統領派)と反乱軍(副大統領派)に分かれて内戦を始めた。攻撃には戦闘ヘリや戦車などの大型兵器が投入され、それらはやがて異なる民族同士が殺し合う民族紛争へと発展していった。
「耳」はいつだって噓をつかれる。
当時、現地に自衛隊を派遣している日本政府は「ジュバにおいて政府軍と反政府軍との間に散発的な発砲事案が生じている」という曖昧な表現で現地の情勢を伝えた。
日本の憲法九条は海外での武力行使を厳しく禁じている。故に日本は自衛隊が派遣先で武器を使用しなくても済むように、これまで「現地で戦闘が起きていないこと」をPKO派遣の大前提にしてきた。
万一、現地で激しい戦闘が起きているのであれば、日本政府はその原則に従って即座にPKO活動を中断し、自衛隊を日本へと撤収させるかどうかの協議を始めなければならなくなる。
そこで政府は奇策を打った。
現地で起きている事実を隠蔽し、「戦闘」を「衝突」と言い換えることによって、PKOの派遣原則への抵触を曖昧にし、自衛隊派遣を維持しようと試みたのである。
故に「目」の出番だった。
現地で起きているのは「戦闘」なのか「衝突」なのか。日本のマスメディアや国会が日本国内で不毛な議論を延々と続けている間、私は一眼レフカメラを抱えて南スーダンへと飛び込んだ。
「耳」は役に立たなかった。日本政府は南スーダンへの渡航を厳しく禁じており、現地の大使館も派遣されている自衛隊もその退避勧告を盾に私の取材の一切を拒否した。南スーダンに入国しても自衛隊の宿営地内にさえ近づくことができない私は南スーダン政府軍と交渉し、実際に政府軍と反乱軍が激しい戦闘を繰り広げたという、自衛隊宿営地のすぐ隣に立つ「トルコビル」と呼ばれる建設中の九階建てのビルの七階へと案内してもらった。 そこで見た光景を私は一生忘れないだろう。
眼下に広がったのは、自衛隊宿営地の全景。
カメラの望遠レンズを使わなくても、宿営地内を歩行する日本の自衛隊員たちの動きが手に取るようによくわかる。いや、ほとんど「丸見え」の状態なのだ。
案内してくれた南スーダン政府軍関係者が言った。「撃とうと思えば、この距離だから簡単に撃てるが、意味がない。奴らは(自衛隊の宿営地のすぐ隣にある)空港を占拠するつもりだったんだ」
トルコビルの壁は弾痕だらけだった。政府軍関係者によると、政府軍はビルに籠城した反乱軍を包囲し、数台の戦車を使って砲撃した。一方、反乱軍はビルの中から自動小銃やロケットランチャーを乱射して反撃した。
その間、無数の弾丸や砲弾が自衛隊宿営地の上空を飛び交い、そのいくつかは流れ弾となって宿営地内に着弾した。「目」はその状況をカメラに収め、日本へと伝えた。
その頃、日本ではジャーナリストの布施
政府の不正をたった一人で暴き出した在野のジャーナリストと、市民の「目」として内戦状態のアフリカに飛び込んだ新聞特派員。
私たちはその半年後、組織の垣根を越えて一冊の書籍を編んだ。
タイトルは『日報隠蔽』。
事実とは何か。権力とは何か。
このたび文庫化されるに当たり、一人でも多くの読者にその「挑戦」を目撃してほしい。
三浦英之
みうら・ひでゆき
1974年神奈川県生まれ。朝日新聞記者、ルポライター。著書に『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』(開高健ノンフィクション賞)『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁との共著、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞)『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』(小学館ノンフィクション大賞)『南三陸日記』(PCJF奨励賞)等。