[今月のエッセイ]
パラリンピックから見える日本
私が育った大分市では、公道で車いすのレースが行われていた。大会の名前は、大分国際車いすマラソン。自宅の近所がコースになっていたため、小学生の頃、何度か観に行ったことがある。歩道で待っていると、現れたのは想像を超えた速さで走る選手たちだった。前輪がついた車いすに乗った選手は前傾姿勢になり、筋肉が隆起した両腕をリズミカルに動かしながら車輪を回す。あっという間に目の前を駆け抜けていくスピードに驚いた。一九八一年に始まったこの大会は、世界初の車いすランナーだけによるマラソン大会だった。
この頃の私は、障害者がスポーツをする、仕事をするという環境が、別に珍しいこととは感じていなかった。散髪に行く床屋の店主は、聴覚に障害がある人だった。近所には視覚障害者が営む鍼灸院もあった。別府市には、多くの障害者が働き、生活する社会福祉法人「太陽の家」もある。障害者も障害がない人と同じように生活できるのが、日本の社会なのだろうと子どもながらに思っていた。これが一九八〇年代の私の記憶だ。
ところが、成長するにつれて、日本の社会は必ずしもそうなってはいないことに気づく。比較的進んでいると考えられた大分県でも、ほんの一部の関係者の尽力によって環境が整備されていただけだった。私は大学卒業後、地元の放送局の大分放送に就職し、報道部に配属されて前述の「太陽の家」を取材するようになる。その時に初めて、日本の障害者が社会復帰を目指してスポーツに取り組むようになったきっかけが、一九六四年に開催された東京パラリンピックだったことを知った。
二〇一三年、東京二〇二〇オリンピック・パラリンピックの開催が決まった。パラリンピックの名称は、以前に比べれば多くの人に知られている。しかし、パラリンピックや障害者スポーツが発展してきた歴史に、日本が深く関わってきたことを知る人は少ない。さらにパラリンピックの意義についても十分に理解されていないのではないかと感じていた。微力ながらこの歴史と意義を伝えることができればと思い、フリーランスのライターとして独立して以降、改めて取材に取り組んできた。そして、約四年かけて一冊の本にまとめることができた。
パラリンピックは、第二次世界大戦後にイギリスの病院で始まった、
日本とパラリンピックのつながりができたのも、同じ一九六〇年だった。「太陽の家」の創設者である中村
当時、日本の身体障害者は、療養所や病院、自宅などで過ごし、特に脊髄損傷患者は寝たきりの生活を送っていた。ところが大会に参加した各国の選手たちは、立派に社会生活を営んでおり、障害がない人と変わらない仕事に就き、家族を養い、スポーツを楽しんでいた。外国人選手たちの明るく元気な姿に、日本の医療や行政の関係者らは衝撃を受けたという。そこで彼らは、リハビリのためのスポーツの普及や雇用の促進などに取り組んだ。つまり、パラリンピックが日本の障害者行政を変えたのだ。
その後のパラリンピックの発展には、日本の関係者も大きな役割を果たしている。パラリンピックが主に欧米の先進国が中心となって運営されていた時代、日本は東南アジアや南太平洋地域に障害者スポーツを広める役割を担った。
東京二〇二〇パラリンピックの開催は「一年程度」の延期になった。そんな中でも本書を上梓する理由は、これまでこうした歴史が語られる機会がほとんどなかったからだ。しかも、障害者を取り巻く状況は、二〇一八年に中央省庁や地方自治体などが法定雇用率の水増しを長年続けていたことが発覚するなど、むしろ後退している。大分でも障害者が営む店を町で見なくなった。障害者がスポーツをする環境もこの二〇年で大きな進化はない。いまだからこそパラリンピックと日本の歴史が検証され、日本社会にこの先どのような変革が必要なのかを改めて考えるべきではないだろうか。
そのヒントになればと思い、障害者スポーツの発展に尽力してきた関係者に話を聞いた。一九六四年の東京パラリンピックで働いた当時の厚生省職員から、障害者がスポーツを楽しむための基盤を作った人、それに厳しい環境の中で金メダルを目指して闘ってきたパラリンピアンまで、多くの方々が快く取材を引き受けてくれた。彼らの声とともに、パラリンピックと日本の知られざる歴史を伝えることができたら幸いである。
田中圭太郎
たなか・けいたろう●ジャーナリスト、ライター。
1973年大分県生まれ。大分放送報道部、東京支社営業部勤務を経て、2016年フリーランスとして独立。「調査情報」「現代ビジネス」など、雑誌やWEBメディアで社会問題を中心に執筆。「大相撲ジャーナル」で大相撲の取材・執筆も担当している。