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受賞エッセイ/本文を読む

第32回 小説すばる新人賞受賞記念エッセイ受賞作「言の葉は、残りて」

[受賞エッセイ]

好きな人のことを、好きなように

「すみません、私事の報告ですが」と、直属の上司に受賞のことを伝えると「え、どういうこと? 作家? 今、辞められたら困るよお。まあ、とりあえずおめでとう」とかわいらしい動揺を見せて、課長にも電話をしてくれた。「ええ、佐藤が小説の新人賞を受賞したとか。ええと小説すばる。小説は漢字で、すばるはひらがな……え、知ってる? あ、けっこう有名? そ、そうなんですね。はあ、なんかすみません」そのやり取りを聞いた私は、改めて「本当に受賞したのだなあ」と思った。
 これまで私は自分の好きな本を好きなように読んでいる、そんなごくありふれた読書好きだった。高校生の頃に一度だけ、小説を書いたことがある。古文が好きだった私は、授業で知った万葉集の大海人皇子おおあまのおうじ額田王ぬかたのおおきみそうもんに惹かれて、その娘の十市皇女とおちのひめみこの物語を空想した。せっかく最後まで書けたからと思い、古文の先生に読んでもらうと、先生は十七歳の自尊心を傷つけないように上手に褒めてくださった。「登場人物の心理描写は、まだあなたの人生経験じゃ書ききれないわね」その時は「ふうん」と、先生のおっしゃる意味がよくわからなかった。だが、三十を過ぎた今なら、あの頃の自分はまだまだ子供だったのだ、ということがよくわかる。結局その後は、受験勉強に追われ、小説を書くことはなかった。文学部に行くことも考えたが、高校生の私は、手に職をつけようという発想で、全く違う分野の進路を選んだ。今でもちょっぴり後悔している。「人生もう一度やり直すなら?」と聞かれたら「高校三年生から」と言うことにしている。
 社会に出てからは、毎朝シフト通りに仕事へ行き、ミスの許されない仕事に集中し、くたくたになって帰宅して寝る。そしてまた朝が来て電車に乗って、の繰り返し。社会人は怒られることはあっても褒められることはない。給料日にちょっと贅沢をして「私、頑張った」と自分で自分を褒めてあげるのだ。そんなある日、仕事で理不尽な目に遭い、悔し泣きをして帰った。夜の電車で独り泣きする三十路女。当然、誰もが見て見ぬふりをしている。電車の暗い窓に映る自分のひどい顔を見てふと、思った。「私、これでいいのか」と。一度きりの人生、何か一つ、自分の好きなことをしてもいいではないか。
 私の好きなことってなんだろう。その時、私はようやく思い出した。古文が好きだったこと、文章を書くことが好きだったことを。その日以来、私は、現実逃避のために、仕事の後や休日に小説を書き始めた。
 どうせ書くなら好きなことを書こうと思い、源実朝みなもとのさねともの和歌を題材にした。私は高校生の頃、彼のこの歌が好きだった。
 炎のみ虚空に満てる阿鼻地獄ゆくへもなしといふもはかなし
 若くして甥のぎように斬殺された彼の人生に、思春期にありがちな喪失への憧憬を重ねていたのだが、大人になった私は、全く違う彼の姿をそこに見た。あらがうことのできない現実から逃げることなく、己の運命を毅然と見据えている。そんな彼の姿に私は、もう一度、恋をした。
 ただ純粋に好きな人のことを好きなように書いた。書いている間は、本当に楽しかった。没頭しすぎて気づくと夜中。
「げ! 明日、仕事じゃん!」なんてことはざらだった(何も文句を言わなかった夫に感謝している)。書いていくうちに書きたいことがどんどん溢れていって、登場人物たちが勝手に会話を始めることもあった。最初に私が想定していたものとは異なる伏線が次々と生まれ、それを回収していくうちに物語は自然と終結へ向かっていった。私の知らなかった結末へ登場人物たちが導いてくれた、そんな感じだった。
 私は歴史の専門知識もなければ、本格的に和歌を学んだこともない。そんな私が実朝のことを想像した時、それは「文弱な悲劇の将軍」ではなく、「美しいことを愛した青年」だった。歴史小説を書いたというよりは、一人の青年の生き方を丁寧に綴った、といった方がいいかもしれない。八百年前に生きた彼も一人の人間なのだから、喜んだり、哀しくなったり、誰かを好きになる気持ちは、今の私たちと変わらない、と信じて書いた。現代人が書いたものを現代人が読むのだ。たとえ歴史小説であっても、現代社会に生きる上での悩みや葛藤や喜びや理想を、登場人物たちに重ねてもいいと私は思っている。そうして読み終わった後に、登場人物のことを好きになって、ほんの少し明日を生きる元気をもらう、そんな作品にしたかった。
 次の物語は、どんな物語になるだろう。好きな人のことを好きなように想像していた私は、作家としてその人たちのことを「書く」チャンスを頂いた。まだ、私の心の中で眠っている彼らをこれから起こしていこうと思う。私の好きな人のことを、今の世に生きる誰かに好きになってもらえたらいい。それが私の小説に込める、ささやかな願いだ。

「青春と読書」1月号に掲載


撮影=藤澤由加

佐藤雫

さとう・しずく
1988年香川県生まれ

『言の葉は、残りて』

佐藤雫 著

単行本・発売中

本体1,650円+税

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