[受賞エッセイ]
本を読んでも腹は膨れぬ
履歴書の趣味の欄。あれほど困るものはありません。
自称真面目な文系大学生として、忙しいながらもオモシロ楽しく過ごした大学に別れを告げ、社会の荒波に漕ぎ出さんとする就職活動の時期。就活セミナーの講師の方に言われました。趣味の欄は、悩んだら読書と書いておきなさい、と。なるほど、読書は無難な趣味のようです。
しかしそれこそ重大な罠。私は大いに苦しめられました。
「で、それは弊社でどのように役立てられますか」の質問に。実益! そう言われると恥入りながらも、何にもなりません、と答えたくなります。正直であろうとするなら。そうもいかないから、なんとか自分をアピールできる答えを絞り出します。そうすると今度は、己の心に恥ずかしい。
私にとって読書とは、行き止まりの趣味です。私の読書がもたらす効果なんてたった一つ。私が楽しくなる、それだけです。愉快で利己的な趣味、読書万歳。
とにもかくにも、何とか就職し、読書の実用性の問いからは、解き放たれて生きてきたわけです。最近まで。
「小説すばる」編集部から、「しゃもぬまの島」が最終選考に残ったと連絡を受けたとき。そのとき私は飲み会の約束を控えていたわけですが、とんでもない喜びで、地元で道に迷うという得難い体験をいたしまして、遅刻して飲み会に参加することとなりました。
しかしその、快楽物質の花火大会(会場は脳内)が落ち着いてきたころ、あろうことか私はまたあの問いに
本よ、お助けあれ。私は絶叫しながら自分の本棚に突進し、
棚から
人類の進化の歴史を、CGを駆使して再現した素敵な番組が書籍化されたものです。七百万年前、最初の人類種が生まれました。多種にわたる人類種たちが生まれ、絶滅していく中で、二十万年前に誕生したホモ・サピエンス。
心奪われたのは、旧石器時代にホモ・サピエンスが残した芸術、洞窟の壁画のページです。フランスのレ・トロワ・フレール洞窟には、上半身は鹿のようで、脚は人間の、不思議な生き物の姿が描かれています。鹿人間! 彼らは実在しないものを想像する力を持っていたのです。
想像力の芽生え、それこそ、人が人になった瞬間ではないでしょうか。
その頃の彼らを、私はこう空想します。
ある日突然、仲間が死にます。彼らは最初、仲間が何事もなかったように動き出すことを望むでしょう。しかし次第に、彼らは恐れます。それが、本当に動き出すことを。仲間への愛情と、死への恐怖が混在します。想像するんです。死後を。死後なんてないのに。死の恐怖から救ってくれる存在を作り出すかもしれません。いうなれば神です。もしかしたらそれが、洞窟に描かれた、鹿人間の正体なのかもしれません。もちろん、違うかも。考えれば考えるほど、途方に暮れるほど面白い。もし鹿人間の作者の爪の垢が出土したら、私は
死後の世界、目には見えない世界、神。人以外に生み出せるでしょうか。死を回避するために合理的な思考は、化学や、物理、数学、医学でしょう。それらに比べ、虚構の世界のなんと非力なこと。けれどそれはいくら理にかなわなくても、いじらしく、多彩です。そこには無限の広がりがあります。
小説の世界は、虚構の世界です。実益とは縁遠い。
しかしそれがいいのです。なぜならそれは、人だけが味わえる楽しみの一つ、最高の贅沢なのですから。
「しゃもぬまの島」は、私が生み出した虚構です。驚くほど、実益はありません。いえ、あるかもしれません。
例えばそう、読むと、しゃもぬまの飼い方が少しわかります。
しゃもぬまについて、私の虚構の世界について、どうか自由に想像して、味わってください。私が、ホモ・サピエンスたちの壁画から、勝手気ままに空想したように。
お気に召していただけたなら、少しでも楽しんでいただけたなら、それほど光栄で、嬉しいことはないと思います。
読書よ、しゃもぬまよ、読書する人以外には無益であれ。読んでいるその人にのみ、大いに有益で有れかし。
「青春と読書」1月号に掲載
撮影=大槻志穂
上畠菜緒
うえはた・なお
1993年岡山県生まれ