[今月のエッセイ]
何故この本を書いたのか
私は大正十四(一九二五)年、日本でラジオ放送が始まった年に生まれました。そして、太平洋戦争真っ只中の昭和十九年九月(一九四四年)、半年繰り上げ卒業を機に、NHK十六期アナウンサーになりました。出陣学徒壮行会が神宮外苑競技場で行われた翌年です。私は国内向けの番組や、真夜中の短波放送などを担当し、空襲警報の出るなかで懸命に働きました(五月にはNHK東京放送会館も焼夷弾攻撃に遭いましたが、みんなの力で延焼を防いだのです)。
敗戦となり、それから一カ月近くたった九月二十日、NHKはGHQ、民間情報教育局の指導のもとにおかれました。十月十日、新しい「婦人の時間」の番組がスタートし、私はそのアナウンサーに抜擢されたのです。
それまで、民主主義について無知だった二十歳の女の子でしたから、荷が重過ぎました。でも、やるしかなかったのです。番組には、婦人活動家の市川房枝、神近市子、プロレタリア作家の宮本百合子、日本社会党委員長の片山哲といった、
その頃の日本は貧乏でした。米も醬油も砂糖も味噌も配給制、家庭に冷蔵庫などはありません。働く母親は
しかし、いろいろな出会いが、私を救ってくれたのです。女優で演出家の長岡輝子さんは、働く母親の悩みを受け止め、力づけてくださいました。作家の野上彰さんは、「黄金バット」のような緑のマントを羽織って現われ、楽しい雰囲気を持ち込んでくださいました。
ラジオは昔、録音技術が発達していないので、放送後は消えるのが当たり前でした。レコードに残す方法はありましたが、高価で、デイリーの放送には、利用出来なかったのです。
私は消えた昔のラジオのことが知りたくて、初期の頃の幼児番組を調べました。戦争が、どのように番組に入ってきたのか、子供に対する考え方がどうだったのかなど、いろいろ考えました。また、歌手の徳山
そんな私の記録を読んだ集英社の飛鳥さんが、
「ラジオのことだけでなく、武井さんご自身のことを書いてくださいませんか?」と言われたのです。
自分のことを書くのは、個性のある重要な人物でなければならない、それなのに、私が書くなんて、と思いました。その上、私は、理論的にものを捉える人間ではなく、いつも感覚的なのです。迷っていると、飛鳥さんは、続けて言いました。「単なる、お年寄りの回顧録ではなく、あの時代を生きた、女性史のようなものにしたいのです」
私は
「武井さんみたいに、感覚でものを書く人は、作家にもたくさんいるわ。そういう人は、たくさん書くといいのよ」
(この方は、講談社で、『窓ぎわのトットちゃん』をまとめられた編集者でした。)私は、彼女のことを思い起こし、とにかく書いてみることにしました。辛くて書けなかったこと、失敗したことなども、思い切って書いてみることにしたのです。
また、素晴らしい方に出会ったこと、その方からいただいた宝物のような出来事を書こうと思いました。
緒方洪庵の曾孫で血清学の権威だった、東京大学教授の緒方富雄先生、心理学者で、文化庁長官の河合隼雄さん、歌人で標準語の大家、土岐
そして、気づきました。
たくさんの方との出会いがあって今があるということ。
私は全体主義から民主主義へ、貧しい時代から豊かな時代へ、女性差別の時代から女性登用時代へという、変化の道程にいたのだということ、それが女性史の一ページになるかもしれない、そう思いました。
本を読んだ皆さんが、私がいただいた素晴らしい宝物を、私同様に味わってくださったらどんなに嬉しいでしょう。
私はそれを心から願っています。
武井照子
たけい・てるこ
1925年埼玉県生まれ。44年、日本放送協会に入局。〈婦人の時間〉のアナウンサーを務めた後、教育課に移り、青少年幼児部チーフディレクターなどを務める。68年〈ピッポピッポボンボン〉で「日本賞」グランプリ、73年〈お話でてこい〉で「日本賞」文部大臣賞。77年詩人の谷川俊太郎らとともに「ことばあそびの会」を結成、楽しい日本語の普及に努めている。