[インタビュー]
セクシュアリティという
奥深い世界を追っていきたい
第17回開高健ノンフィクション賞を受賞した、濱野ちひろさんの『聖なるズー』。本作は濱野さんがドイツで出会ったズー(動物性愛者)たちを通して、セクシュアリティの多様なあり方について迫ったもの。ズーたちは、共に暮らす犬や馬をパートナーとして、時に性行為にも及ぶ。「動物とセックスをする」というと、ともすればスキャンダラスにとらえられがちだが、本書を読み終わると、そうした思いは見事に払拭されていることに気づく。選考委員の藤沢周氏がいうように、「この作品は『セックス』のみの問題ではない。それを超えて世界の
濱野さんは、自身の性暴力の経験をきっかけに、愛とセックスに対する不信感と挫折感を根深く抱えてしまった。それにまつわる苦しみをきちんと考えたいと思い、京都大学大学院に進学。文化人類学を専攻する。研究テーマとして選んだのが「動物性愛」だった。そのスタート地点から、どのような経過を経て今回の作品に結実したのか。学術調査のために訪れていたドイツから帰国されたばかりの濱野さんにお話をうかがった。
聞き手・構成=編集部/撮影=三山エリ
誰も手をつけなかった「ズーフィリア」という領域
─ 『聖なるズー』で「動物性愛(zoophilia)」という言葉に初めて接し、「獣姦(bestiality)」という言葉とはまったく意味するところが違うことを知りました。
日本では動物とのセックスというと、「獣姦」という言葉がまっさきに思い浮かぶと思います。獣姦を意味する英単語のbestialityは、もともと法律用語でした。ベスティアリティは、動物とのセックスという行為そのものを差します。その行為には、ときに動物に対する暴力的な態度や行動も含まれます。
一方で、動物性愛は医療領域の用語として生まれたものです。動物性愛は、動物に対する心理的愛着に重きが置かれていて、動物に対する暴力的な行為は含みません。
動物性愛という用語があらわれたのは十九世紀末、性的倒錯などの研究で知られるリヒャルト・フォン・クラフト=エビングによる著書『Psychopathia Sexualis』が最初でした。以後、動物性愛という言葉は主に精神医学・性科学・心理学などの分野で使用されてきたという経緯があります。
人文科学の方面では、動物とのセックスについては、これまで文化人類学の一部の民族誌などでも取り上げられてきましたし、哲学などの分野でも議論されています。でも、動物性愛者ひとりひとりに会い、その実生活を調査して論じるという文化人類学的研究は、これまでにもあまりないと思います。
─ 濱野さんご自身は、それ以前に動物性愛のことは知っていたのですか。
いいえ、知りませんでした。この研究テーマに取り組もうと思い始めたきっかけに、当時の指導教員からのアドバイスがあり、それが発想の種になりました。指導教員から、獣姦を研究してみたらどうかと、あるとき言われたのです。はじめはその提案に取り組む気はまったくありませんでしたが、妙に気になってしまったのも事実で、bestialityといった言葉で検索を続け、いろいろ調べていくうちに、動物性愛を意味するzoophiliaという言葉に出合いました。
先ほどお話ししたように、動物性愛は、動物に対する暴力的な行為は含みません。また、2000年代以降、主に性科学の分野で、動物性愛は性的指向のひとつかもしれないと議論されていることも分かりました。「動物を一方的に支配することもある獣姦について研究することは自分にはできないが、動物性愛の研究は面白そうだ」というひらめきがこのころに生まれました。動物性愛という性愛のありかたには、セックスと愛についてのさまざまな難しさ、ねじれがあるように思えたからです。
調べ続けるうちに、本書で取り上げたドイツにある動物性愛者たちの団体「ZETA/ゼータ(寛容と啓発を促す動物性愛者団体)」に行き着きました。当事者の話を直接聞けば、議論すべきことが明確になってくるだろうと思いました。
論文ではできなかったことをノンフィクションの形で
─ このテーマをノンフィクションのかたちで書こうと思われたのは?
本書の元になっているのは、修士論文執筆のための学術調査です。もともとノンフィクションを書くためにおこなったものではありません。文化人類学的手法でフィールドワークを行い、その成果を修士論文と、そのほかの学術論文二本にまとめています。
さらにノンフィクションとして書き下ろそうと思った理由は、研究に至った個人的理由を掘り下げる必要があると感じたからです。
─ そうしなくてはいけないという内発的な理由が、濱野さんの中にあったということですか。
はい。わたしは過去10年間、当時のパートナーからのドメスティック・バイオレンスと性暴力を経験しています。その経験をいつか言葉にしなくてはならない、書かなくてはならないという思いがありました。そもそも大学院でセクシュアリティ研究に携わろうと思ったのも、それが最大の理由です。
でも、論文では自己を開示する必要がありません。一方、ノンフィクションでは、わたし自身がどのようにテーマに関わり、人々と関係を築き、何を発見したかということが重要になります。調査の過程で、ズーたちと密接に付き合うなかで、彼らに対して真摯であるためには、わたし自身も率直でいなければならないと常に感じていました。
ノンフィクションというかたちであれば、自分も相手も裸になって話し合った内容を紡ぎ合わせていくことができます。『聖なるズー』では、わたしが見た現実を、素直に書くことを心がけました。
─ 本書に登場するズーたちにとっての、動物へのまなざしや動物との生活が、少なくとも彼らにとっては真実であるのだということを感じました。
ありがとうございます。彼らはわたしに、普段は秘密にしていることまで話してくれました。わたし自身、調査に実際に行く前はずいぶんびくびくして、どんな人たちなのだろうと不安に思っていましたし、彼らを理解できるかどうかさえわからない状態で調査を始めました。でも、彼らの生活を間近で見るなかで、目が開かされたことがたくさんありました。いまはもう、ズーという人々やズーというありかたを理解できますし、ある部分ではズーに共感しています。調査を通して、ずいぶん自分自身が変わったと思います。
─ 初めての調査では、未知の地へ踏み出すという感じですか。
そうですね。わたしの場合は、ドイツという、日本ではよく知られた国で、なおかつ憧れを持って旅行にいくこともあるような場所がフィールドでした。ある意味で、すでに知っている気がする土地なのです。けれども、よく知られた国や地域、身近な場所にも、かならず未知の領域があるはずだとわたしは思っています。
実際、ドイツにもたくさんの興味深い世界があり、知的冒険を叶えてくれるフィールドがあるんです。ですから今も、ドイツでの挑戦は続けています。
お互いが対等であるという意識
─ ズー(動物性愛者)という言葉は一般にはまだ馴染みがないと思いますが、濱野さんの定義では?
わたし自身は、この本のなかで、かなり広い意味でズーを定義していると思います。動物に暴力を振るわず、また、動物の性を無視せずに、それを当たり前のこととして受け止めつつ、性を含めてケアをする。そのときに実際の性行為があるかどうかはそれほど重要ではありません。
わたしがもっとも共感したズーたちは、「ズーになっていく」人々でした。彼らは、生まれながらのズーではなく、ズーというあり方を知って共感し、自分もズーとなっていくんです。そして、身近な動物の性を直視して、パートナーのいのちを「まるごと受け止めたい」と話し、実践します。
─ この本にも、物理的なセックスがないズーのケースが結構出てきます。
はい、そうです。ズーたちは、パートナーとなる動物をとても大切にしますから。たとえばミヒャエルという男性は、パートナーの犬が求めてこないので、セックスは一切しない。また、セックスはせずにマスターベーションをサポートして、動物の性をケアする人々もいます。さらに、ズーになる人々のなかには、まだ実際のセックスはしていない人もいます。セックスをするかどうかより、相手の性をどう尊重し受け止めるかが問題なのです。
─ 動物をパートナーとする場合に、もっとも重要なことは、自分と相手とが「対等」であるという意識だと、力説されていますね。
それは本当に重要なことだと思います。ズーたちは動物といかに対等に接するかを試みているわけですが、果たして本当にそれができているかというのは、判断のしようがないことでもあります。試みているだけでも、十分だとわたしは思っています。誰かと対等であるという意識を貫いていくのはそう簡単なことではありません。常に相手と対等であり続けて、どんな瞬間もそれを守り続けるというのは、人間同士でもものすごく難しいと思います。それでも、対等な関係でなくなった瞬間に、相手の存在がとてももろいものになってしまうとわたしは感じるんです。
自分の過去を振り返ってみると、どうしてわたしは対等でない扱いに甘んじていたのだろうと思います。相手との関係が対等ではないということだけで、本来は怒っていいし、逃げていい。とてもシンプルなことなのに、わたしはそれをしなかったんですね。
少なくともズーたちは、動物のパートナーたちとどうにか対等になりたいと思っています。身体も脳も違う動物という存在と人間が対等であるというのは、理解されがたいことかもしれません。けれども、それを追求しているのがズーたちです。そんな彼らのありかたを本書では詳しく書いています。
人間関係でもそうですが、お互いの立場などを抜きにしても、いつもシーソーゲームのように力のやりとりが生じる。日々、相手と対等であるべきだ、ということを念頭に置いていなければならないのだな、と強く思うようになりました。対等であること抜きには、相手の存在を抱え込むことはできませんから。
─ ところで、ズーたちにとって、ゼータという団体があることで救われた人たちも多かったようですね。
本書に出てくるエドヴァルドという30代の男性は、ゼータの設立メンバーの一人であるミヒャエルのブログを読んで、自分は「病気」ではない、ズーというセクシュアリティのあり方があるんだと知り、すごく励まされたと言っていました。
インターネットの隆盛とズーというセクシュアリティの顕在化は関係が深く、もともと誰にも言えずに孤独を感じていた人たちが、オンライン・コミュニティを通じてつながり、徐々にカミングアウトが進んでいったという経緯があります。ゼータもオンライン・コミュニティの側面が強く、メンバーたちはチャットなどを頻繁にしながら、支え合っています。
─ 達也という日本人の男性も出てきますが、この作品を読むことで救われる人が日本にもいるのではないでしょうか。
そうであれば嬉しいです。わたしがこのテーマを論文で書くようになって、実は「自分も犬から性的なアプローチをされたことがあり、戸惑っていたけれど、少し理解ができるようになった」といったことを打ち明けられることが何度かありました。日本ではまだ動物性愛という言葉は浸透していませんし、ズーというありかたも知られていませんが、身近な動物との関係を考えるときに、ひとつの問題提起となればいいなと思っています。
─ ズーを入り口としてセクシュアリティの世界へ足を踏み入れたわけですが、ある程度見えた部分がありますか。
まだまだだと思います。ここから相当踏み込んでいかないと、見えてこないことばかりだと思います。
─ 道が遠いという感じですか。
遠いというより、広い。広すぎてまだほんの入口のところでウロウロしている感じです。つい昨日まで、ズーではないテーマでのセクシュアリティ研究のためにドイツに二カ月ほど行っていましたが、毎日驚くようなことばかりで、何をどうまとめたらいいものか、頭の中がごちゃごちゃしています。
─ むしろ、奥深い世界?
奥深いですね。人間のセクシュアリティというのは、どうしてこんなに生殖から離れてしまっているんだろうなとは思います。いい側面をいえば、人間のセクシュアリティってここまで充実して、ここまで自由に楽しい。そういうことを、この二カ月の間に何度も目にしてきました。
─ セクシュアリティという茫漠たる世界をもうしばらく迫っていきたいと。
手応えは感じています。調査をすれば毎回、迷路にはまります。けれどもその迷路で思う存分迷いながら、論じてみるとおもしろいんじゃないか、という気がします。これからもきっちり取り組んでいきたいです。
濱野ちひろ
はまの・ちひろ●フリーライター。
1977年広島県生まれ。2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。旅行記事、映画評、インタビュー記事などを執筆。2018年京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同大学院博士課程にて、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。