[今月のエッセイ]
『沖縄からはじまる』
電子版の刊行に寄せて
一九九八年、つまり二十一年前に刊行した本を、少しの補遺を添えたとはいえ、今になって電子版という形でまた出す。文学ではなく、もっぱら政治に関わる内容である。事態はすっかり変わってしまったのに、今この本に意義があるのか?
これは
大田は一九九〇年から一九九八年まで二期に
ぼくは沖縄が好きで一九九四年から十年間住んだ。はじめの五年は那覇で、残る五年は
その一方、沖縄で暮らしていると米軍の存在がいやでも目に入る。日本にある米軍基地の四分の三がこの狭い島にある。空は軍用機で満たされ、道路には大型トレーラーやYナンバーの米兵の車が行き来している。犯罪や事故も少なくない。一九九五年には「少女暴行事件」が起こり、二〇〇四年には普天間基地のすぐ脇の沖縄国際大学にアメリカ海兵隊のヘリコプターが墜落した。
こういうことについてぼくは内地の新聞・雑誌にレポートを書いて送った。こんな目に遭っている沖縄がかわいそうだからではなく、こういうものをこの県一つに押しつけて平然としている日本の姿を醜いと思ったからだ。これをぼくは「勝手な特派員」の仕事と思っていた。
大田昌秀は政治家として優秀だったのだろうか。前身は琉球大学教授、それも専門はメディア社会学という分野で、こんなにアカデミックな知事は他にはいない。だからか彼の理念は明快だった。
しかし政治の場ではいろいろな力が働く。選挙は人気投票に堕し、財界人は利を求めて圧力を掛けてくる。外交には駆け引きの面が多く、その背後には基地などの軍備が控えている。平和平和と日に三回唱えていれば平和が実現するわけではない。
そういう政界で大田は民主主義を信じすぎたかもしれない。一九七二年の日本復帰に際して、彼はあの憲法がある国だから帰ろうと考えたが、その憲法の第九条は少なくとも沖縄に関しては効力を停止している。
「少女暴行事件」に際して開かれた県民総決起大会で大田はまず「一少女の尊厳を守れなかったことを行政の長としてお詫び申し上げます」と言った。政治家の口から国民の尊厳という言葉が漏れるのをぼくは初めて聞いて、ちょっと感動した。
普天間基地は住宅地の真ん中にある。周囲には幼稚園から大学まで十数箇所の教育施設がある。軍用機の離着陸のたびに爆音で授業は中断される。その滑走路を東京に持ってくれば、青梅街道の中野坂上から高円寺に至る。同じ条件の学校にあなたは自分の子供を通わせるか?
だから移転が必要。誰にでもわかる理屈だ。だからと言って、同じ県内の辺野古にとんでもなく広い海面を埋め立てて基地を新設すると言われて県民が納得するだろうか。
ここで話は元に戻る。二十一年前に出た県知事と作家の対談集に今も読む価値があるか。ぼくと大田は何度となく会って話をした。場所はだいたいロワジールホテル。最後はいつもウィスキーになった。現実の難題の話をしながら大田はしばしば民主主義の原理に戻った。その実現のための戦略の話もしたが、それでもぼくはたった今、政権の側にいる面々の厚顔無恥に比べれば彼はやはりナイーブだったと思う。
二十一年たって辺野古を巡る状況は変わらない。いや、いっそう悪くなったのだ。辺野古はテクニカルな問題が多発している。海底はマヨネーズなみの軟弱地盤でいくら土砂を投入しても固まりそうにない。そういう報告を頭から無視して埋め立ては進む。工期はどんどん延びる。
ぼくと大田も理想を語った。沖縄という地の利を生かして中継貿易の拠点にする。琉球王国の隆盛を再現する。観光立県はすでに実現している。大田の時に三百万弱だった観光客は今は一千万に届こうとしている。
大田は言う─「沖縄問題は多くの場合、一種の外交問題にひとしい。それだけに、一方的に拒絶されないように同じテーブルにつき、双方が共通のテーマについてきちっと話し合うことが大事です」。しかし日本政府は今もテーブルに着こうとしない。
大田はこの本が刊行された後、三選目に出馬して落選した。ぼくには県民が辺野古を犠牲にして補助金政治を選んだように見えた。そういうことぜんぶを回顧してぼくは二〇一六年に再び大田に会って話を聞いた。それが補遺として加えた部分である。大田はその後に亡くなったし、この本のプロデューサーであった
しかし辺野古の海には今も日々土砂が投入されている。
だからこの本は現役なのだ。
池澤 夏樹
いけざわ・なつき● 作家・詩人。
1945年北海道生まれ。著書に『スティル・ライフ』(芥川賞)『マシアス・ギリの失脚』(谷崎潤一郎賞)『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』(毎日出版文化賞、朝日賞)『知の仕事術』等多数。『池澤夏樹=個人編集日本文学全集』を刊行中。