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爆走する自意識の物語
下町ブームの火付け役となった東京下町の谷根千(谷中・根津・千駄木)は、数多(あまた)の近代文学作家たちが居を構えた文豪の町でもある。本書は、この地に住む小説に魅入られた三人の男女を主人公に展開する連作群像小説である。
女性専用シェアハウスで暮らす美里(みさと)は、小説投稿サイトに二次創作小説をアップすることが趣味の二十歳の大学生。読者の「いいね」が心の支えになっている。そんな中、中学時代の同級生の羽鳥あやが、美人芥川賞作家として脚光を浴びる。「✝夢小説十夜✝(谷中)」は、陰キャを自認する美里が、個性を求めて悪戦苦闘する物語だ。
続く「エゴサーチと奇跡の一冊(根津)」の主人公は、作家デビューを果たすも、二作目が書けない三十六歳の岡村。彼は、かつての栄光を確認するためのエゴサーチがやめられない。小説を書くことから逃げ続けてきた岡村は、ある体験を経て、小説を書くことに再び向き合おうとする。
表題作の「鷗外(おうがい)パイセン非リア文豪記(千駄木)」は、森鷗外記念館に隣接するアパートに住む二十八歳の崇(たかし)の半生に迫る。高校時代に知りあった女子に鷗外の文庫本をもらった崇は、すべての事象は彼女と結ばれるストーリーの「伏線」であると考える。炸裂した妄想は、彼を思わぬ場所へと連れていく。
主人公は三人とも、その内に肥大化した承認欲求を抱えている。個性がほしい、人に認められたい、有名になりたいと葛藤する彼らの思いは、私たち自身の自意識の問題にもつながっている。卓抜した人間観察と同時代への問題意識が、SNS時代の新しい関係小説を生んだ。
もがき苦しむ三人は物語の最後で、ささやかな希望の場所へと辿り着く。他者との関係を通して得た気づきによって、それぞれが獲得した和解と再起動の情景を作者は細心の丁寧さで描く。「小説家とは、誰かのために、物語を生み出せる人。そして、それができるのは二作目から」と岡村が語る場面がある。作者にとって二作目となる本作が、小説家・松澤くれはの可能性の出発点となることを願ってやまない。
榎本正樹
えのもと・まさき●文芸評論家