[本を読む]
死んだはずの父の声が、波乱を呼ぶ
下村敦史は希有(けう)な作家だ。
ミステリでは往々にして遺産をきっかけに事件が起きる。時には人を殺(あや)めるほど金銭――特に他人から転がり込む大金には人間を狂わせる魔力がある。
下村敦史『絶声』において事件の引き金になるのは昭和の大物相場師と呼ばれた堂島太平の遺産。彼は約七年前、膵臓がんに冒された身で自宅から失踪した。主人公の正好と二人の異母兄姉はそれぞれ大金が必要で、一刻も早く遺産を相続したい。膵臓がんだった太平がどこかで生き長らえている可能性はゼロに等しく、三人は彼の失踪宣告、つまり法律上の死亡扱いの成立を今か今かと待ち構えていた。しかし時計が失踪から七年を刻もうとした瞬間、驚くべき報(しら)せが入る。
太平が失踪以前に作ったブログが更新されたのだ。本人にしか更新できないはずなのに、なぜ?
このままでは失踪宣告が認められない。動揺し、また憤(いきどお)る相続人たち。彼らの思惑をよそに、ブログは立て続けに知られざる真実を吐き出していく――。
遺産、相続人、過去。
金、愛、人生。
物語を構築する要素は至って明快なのに、ページを追うごとに謎は深まり、主人公を取り巻く状況は加速しながらめまぐるしく姿を変える。
たとえるならば一級の手品、あるいは数学の名問だろうか。謎を解くための鍵は文字の渦に隠されることも、無理矢理な偽装に糊塗されることもなく、夢中でページをめくり続けた読者はいつの間にか鍵を握りしめていたことに気付くのである。
人の命とは常に重厚なテーマだ。しかし下村敦史の手によって大胆、そして繊細に物語に織り込まれたそれは、我々の前に立ち塞(ふさ)がるのではなく、同伴者として長い思索の道を寄り添ってくれる。
新米ながら同じミステリ作家として、この絶妙なバランス感覚に感服せずにはいられない。
下村敦史は本当にレベルの高いことをいとも簡単そうにやってのける、希有な才能の持ち主だ。
今村昌弘
いまむら・まさひろ●作家