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その本を手にした時、私が真っ先に感じたのは、驚きでも喜びでもなかった。 安堵。このひと言に尽きる。 心の底から、「あぁ、良かった。またこの人の作品が読める」と、そう思ったのだ。 その一冊とは、『翼はいつまでも』である。あの『雨鱒の川』以来、11年ぶりのことだった。作者は、川上健一。 11年の長き不在の間には、業界内で囁かれた諸説があった。いわく、身体を壊して地方で療養中である。いわく、心身ともに疲弊しきってしまい、断筆した、等々、等々。 1年の不在であれば笑って否定される。5年の不在であれば、噂の信憑性を疑いつつ、心配される。10年の不在になれば、噂そのものが立ち消えてしまう。 そんな時、11年の不在など一瞬にしてチャラにしてしまうような傑作を引っ提げて、川上健一は帰って来たのだ。 『翼はいつまでも』はその年の「本の雑誌」の年間ベスト1に選ばれ、第17回坪田譲治文学賞受賞作となった。 本書『ビトウィン』は、川上健一の11年間の“不在証明”ならぬ“存在証明”である。同時に『翼はいつまでも』のメイキングにもなっていて、読みどころが2倍、2倍! 映画でもそうなのだが、傑作のメイキングは傑作である、という定説を裏切らない一冊だ。 小説を書かなくなった直接の原因は「肝臓をぶっ壊してしまって無気力になったせい」だ。「飲みすぎとストレス」が原因で、入院するほどではないにしろ「熱っぽくて、だるくて、気分が悪くて、つまるところなにもする気がおきない」。夏場は「ぐったりとしてほとんど目を開ける気力すらおきない」ほどだったというのだから、これはもう、相当重度の患いだったと思われる。 が、ここからが、作者の「らしい」ところだ。医者の、涼しいところへ引っ越した方が身体は楽だよ、とのひと言に、「気分の悪さから逃れられるのなら」と、「一も二もなく八ヶ岳南麓の高原の村」に引っ越してしまうのである。「ついでにストレスを断ち切るべく仕事をしないことに」してしまうのである。 「オーケー。まずは身体だ。身体を治そう。無理に仕事をしたってロクなものは書けない。書きたいという気力がわくまで書くのはやめにしよう」 おそらくは、肉体的にギリギリのところまで追い詰められていた作者の、この、土壇場での真っ当さ。これこそが、川上健一という作者の資質なのだ。そして、この真っ当さが、11年後の傑作『翼はいつまでも』につながっていくのである。 そういうわけで、高原の村での半隠遁生活(!?)に突入したわけだが、「長くても1年で復帰できるだろう」という作者の読みは見事にハズれる。それは、「貧乏に嫌気がさして一念発起するということもせず、それどころか仕事をしない毎日が面白くて楽しくて仕方がない」からだった。 では、どういうふうに面白かったのか、は実際に本書を読んで欲しい。時間がゆったりゆっくりと過ぎていく田舎暮らしの中で、時に人間ドラマがあり(村議会選や“虫歯男”のくだりを見よ!)、事実は小説より奇なり、とでも言うしかないような出来事がある(イワナとの格闘場面や、松茸をめぐる冒険を見よ!)。 何よりも、作者をめぐる人々が素晴らしい。釣り仲間は勿論だが、何と言っても、家出までして16歳も年上の作者のもとへとやって来た「妻」の存在、そしてその妻との間に生まれた一人娘「ヅキちゃん」の存在が、きらきらと輝いている。 田舎暮らしにずっぽりとはまり、その日暮らしを楽しんでいる作者以上に、その地での日々を伸び伸びと生きている二人。それこそが、作者を支える源であることが、本書を読むとよく分かる。 勿論、きれい事ばかりで済まされない日々もあったには違いない。作者いわく「慢性的手元不如意状態」なのである。当然、心がしゅんとなる時だってあったはずなのだ。が、彼女もヅキちゃんも、そんなことは大したことではない、ということを、心の深い部分でちゃんと知っているのだ。 ヅキちゃんの衣服は、ほとんどがお母さんの手作りだ。パジャマも浴衣もオーバーも手袋も靴下も。ヅキちゃんのイスや机や積み木やソリは、全部お父さんの手作りだ。それは、「手元不如意状態」から必然的に生み出されたことかも知れないけれど、本当はとても贅沢なことなのだと思う。何よりも、ヅキちゃんのお母さんもお父さんも、そのことを心から楽しんでやっているのだから。 だから、あの傑作の本当の生みの親は、作者ではなく、作者の妻であり娘、なのだ。そのことを一番良く分かっているのは、多分、作者自身である。
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【川上健一さんの本】
単行本 集英社刊 3月25日発売 定価:1,470円(税込) ![]() |
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