青春と読書
 待望の『完訳ファーブル昆虫記』(全10巻、各巻上下、全20冊)がいよいよ今月から刊行されます。『昆虫記』に出会ってから50年、この翻訳に取り組んで18年、文字通りファーブルと共に歩んできた奥本大三郎さんと、やはり小学生の頃からファーブルに親しんできた養老孟司さんのお二人に、『昆虫記』の魅力を語っていただきました。


・・・・・・ 日本人はファーブルがお好き ・・・・・・・・・・・・

養老 『昆虫記』の日本での翻訳はこれまで何種類出ているんですか。

奥本 まず、大正11年(1922)に叢文閣というところから大杉栄の訳が出ています。もっとも、大杉は第1巻が出た翌年、関東大震災のどさくさにまぎれて、憲兵隊に殺されてしまいますから、椎名其二たちがその後を承けて翻訳を完成させます(全10巻)。その次に、昭和5年(1930)の2月から岩波文庫版(全20分冊)、同じ年の6月からはアルス版(全12巻)が刊行され始める。ですから完訳だけで3種類あるんです。

養老 それらは、今も手に入りますかね。

奥本 岩波文庫版は今も出版されています。そのほかのも古本屋で探せば手に入ると思います。

養老 大杉栄のものは見たことないな。

奥本 たまに古本屋に出ます。大杉の訳は威勢のいい文体で、なかなかいいですよ。

養老 世界ではどうなんですか。

奥本 イタリア語訳とかポーランド語訳とかありますけど、どれも抄訳ですね。

養老 英語は?

奥本 英語はもちろんありますけど、ごく一部の抄訳ですね。

養老 そうすると、完訳があるのは日本だけで、しかもこれまでに3種類あって、奥本さんのが4つ目になるわけですね。これは日本人のファーブル好きの証だけれども、ファーブルはフランス本国ではそれほど読まれていないわけでしょ。
 本国で必ずしも流行らないで日本で流行る人というのは、ファーブルとゲーテですね。

奥本 ゲーテもドイツ本国ではそれほど人気がないんですか。

養老 有名な割にはあまり読まれていない。ドイツの新聞に、「ゲーテは日本人か」という記事が出たことがあったほど、日本人のゲーテ好きは不思議に見えるらしい。ゲーテも解剖とか自然が好きだった。そういうのがやはり日本の文化と合うんですね。
 ファーブルのような観察というか、感覚で世界をとらえるというのはヨーロッパでは少なかった。一方、日本人はそれが得意というか、そういう自然のとらえ方は当たり前だから、ゲーテやファーブルに親近感をもつわけですよ。たとえば、ゲーテはキュヴィエの比較解剖学に非常に関心をもっていて、エッカーマンとの対話の中でも、キュヴィエとサン・ティエールとの種の変化をめぐる論争について興奮して語っている。

奥本 「この事件には、きわめて重大意義がある」といってますね。
 フランスにはファーブルの先駆者みたいな人がいて、たとえばファーブルがその論文を読んで非常に啓発されたというレオン・デュフールという軍医は、きちんと観察していますし、レオミュールなども結構やってますね。

養老 その2人は、ファーブルもよく引用してますよね。

奥本 しかし、レオン・デュフールもレオミュールも日本人は誰も読んでいない。本がなかなか手に入らないですからね。それに日本の虫屋は大体ドイツ語をやったでしょ。今、来年オープン予定で自宅の庭に「ファーブル昆虫館 虫の詩人の館」と名づけた昆虫資料館を建設中なんですが、そこにレオン・デュフールやレオミュールの原書も展示しようかと思っています。

養老 それは楽しみですね。ところで、翻訳はいかがですか。

奥本 苦労しています。ファーブルの文章というのは、はっきりいえば田舎風で、くり返しの多いくどい文章なんです。それをいろいろにいい換える。そのくり返しをそのまま日本語にするとおかしなことになる。たとえば、「レオン・デュフールは……」といって、その後に「この軍医さんは」あるいは「この昆虫学者は」というふうにいい換える。それをそのまま訳しても意味が通じにくくなる。

養老 大体、西洋語と日本語とでは、重複するところが違いますからね。といって、あまりていねいに訳していくと長くなる。たしかに翻訳は難しいですね。

奥本 その点、岩波文庫版の訳は非常に素直です。でも今の目から見ると、ずいぶんと難しい漢字がずらずら並んでいる。耳慣れない語も多いし。

養老 ぼくが最初に『昆虫記』を読んだのは小学生でしたから、わからないところは飛ばしていましたよ。

奥本 せめてルビが振ってあればいいんですけどね。ぼくも小学5年生の時に岩波版を読みましたけど、読めない漢字ばかりで途中で挫折しました。養老さんの頃に比べて、ぼくらの時代は正字を習っていませんから読みようがない。旧カナは慣れるけど。

養老 ぼくらの頃だって、周りで読んでいる小学生はいませんでしたよ。大体、本そのものがなかった時代ですから。

奥本 新刊書がなかった。戦災で焼けた家も多かったし、かろうじて親とか兄、姉の本が残っている家の子は本が読める。

養老 ぼくの兄貴なんかは、家にある本を古本屋に売り飛ばしていた(笑)。当時は本がないから逆に売れたんです。兄貴どころじゃなくて、お客で来た人が勝手に本を持っていっちゃう。そういう時代ですよ。
 ぼくも『昆虫記』は古本屋で自分で買い集めた。その時代は揃いというのはなくて、店に出ていても巻がばらけてるから、揃えるのが大変なんですよ。

奥本 20分冊ですから、同じ巻をうっかり買っちゃうこともあるでしょ。分冊にしたというのは、やはり一遍に訳し切れなかったからで、実際、昭和5年に最初の巻が出て完結するのが昭和27年です。訳者は山田吉彦(きだみのる)さんと林達夫さんの2人ですが、主に訳したのは山田さんですね。山田さんは虫の実物をまったく見ず、虫のことを知らないのに、あれだけのものを訳したんですから、その語学力たるや、凄いですね。


【奥本大三郎さんの本】

『完訳ファーブル昆虫記』(全10巻各巻上下 全20冊)
ジャン=アンリ・ファーブル著
奥本大三郎訳
単行本
集英社刊
第1回配本・11月24日発売・第1巻上
第2回配本・12月20日発売・第1巻下
特別定価:(各)2,500円(税込)


プロフィール

おくもと・だいさぶろう●フランス文学者。
1944年大阪府生まれ。
埼玉大学教授、日本昆虫協会会長。著書に『虫の宇宙誌』(読売文学賞)『楽しき熱帯』(サントリー学芸賞)『博物学の巨人 アンリ・ファーブル』『ジュニア版 ファーブル昆虫記』(産経児童出版文化賞)等。


ようろう・たけし●解剖学者。
1937年神奈川県生まれ。
北里大学大学院教授、東京大学名誉教授。著書に『からだの見方』(サントリー学芸賞)『唯脳論』『バカの壁』『いちばん大事なこと』『ひとと動物のかかわり』(共著)『私の脳はなぜ虫が好きか?』『マンガをもっと読みなさい』(共著)『脳という劇場』等。



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