青春と読書
 五十二歳である。秋に誕生日を迎えたら三になる。早いものだ。デビューした当時、私の実年齢があまり知られていなかったせいで、やたら若く思われて内心で苦笑していた。
 まあ、時代小説の分野では四十代は十分に若い方になるというものの、手放しで若い若いと言われるのもどうかと思う。私は必要以上に若くも、年寄りにも見られたくない。年相応でいい。女優でもあるまいし。
 うかうかしている内に、すぐに五十路が来てしまった。まさに更年期の年代である。更年期とは女性の閉経の時期を指し、だいたい四十歳から五十歳までと幅がある。
 中には体調を崩し、医者や薬の世話にならなければどうしようもない人もいる。
 私はどちらかと言うと体育会系で、学生時代は文芸部など見向きもせず、せっせとスポーツをしていた。夏休みには午前中、体育館で卓球の練習をし、午後からは学校のプールで泳いでいた。高校を卒業してからは武道の道場に三年ほど通った。会社勤めをするようになるとボウリングに精を出した。さらに結婚して子供が小学生になると、社会学級でバドミントン部に入り、週に二回はラケットを振っていた。
 そのお蔭で極めて健康な身体である。出産以外は入院というものも経験したことがない。
 しかし、さすがに五十になると老化の傾向は否定できない。無闇にいらいらしたり、突然に大量の汗が流れるということはないが、もともとアレルギー体質だった身体は、さらに敏感になったような気がする。
 春先に上京し、二泊して函館に戻ると瞼が腫れた。東京はそろそろ花粉症の季節ではあったが、それにしても、たった二泊でそうなるとは思いも寄らない。
 二、三日で治るかと放っておいたら、症状は悪化する一方で、もう人相もなくなるほど顔全体が腫れた。我慢できずに皮膚科に駆け込んだ。
 原因は様々に考えられると医者は言った。
 疲れ、ストレス、白髪染め、目薬の使い過ぎ、そして体調の変化である。更年期とは言わなかったが、私は内心でそれが大きな理由だろうと思っている。目薬は日に二度ばかりさすのが適量で、私のように三十分おきにさすのは、いくら何でもやり過ぎらしい。幸い、症状は一週間ほどで治まった。

 私が尊敬している葛飾北斎の娘の阿栄は、晩年、茯苓(ぶくりょう)を煎じて飲んでいたというのを記憶している。サルノコシカケ科のキノコの類で、漢方では利尿、鎮痛、鎮静に効果があるとされる。阿栄は六十過ぎまで生存が確認されているので、当時の女性としては長生きの方だろう。更年期の不快な症状も身に覚えがあったはずだ。
 阿栄は原因不明の頭痛、いらいらを茯苓で解消しようとしたらしい。私も阿栄にならって茯苓を取り入れることを考えた。で、薬屋で求めたのが、何と昔懐かしいネーミングの「命の母」と「實母散(じつぼさん)」。この二つの漢方薬に茯苓が入っている。「命の母」にはその他に芍薬、桂皮、当帰、半夏、人参、紅花等、女性の身体によさそうな漢方薬が入っている。「命の母」は錠剤であるが、「實母散」は麦茶のように一つずつパックになっていた。これを沸騰した湯で煎じて飲むのである。くせのある香りは、銭湯の薬湯と同じものであった。
 近所に看護婦の友人がいる。この友人は、おもしろいことに病院の薬は一切飲まない。
 腹痛には富山の置き薬に入っている「赤玉」一本やり。そして少し具合が悪いと、「實母散」である。子供の頃から母親に飲まされていたという。子供にもいいらしい。彼女の兄も飲まされていたそうだ。
 だが、私は「實母散」の匂いに閉口して続けられなかった。「命の母」は錠剤なので今でも飲んでいる。この薬は死んだ伯母も飲んでいた。一年ぶりに生理を見たのはこのせいだろうか。わからない。
 老いというものは誰しも避けては通れない。
 もちろん、死というものも。自分の死には大いに興味がある。いったい、どういう状態でそれがやって来るのだろうかと。
 作家としての大いなるテーマでもあるが、誰も生きている内はわからない。なるほど、これが死かと思った時、自身はもの言わぬ亡骸となっている。残された者に伝える術はないのだ。生きている者は死体から、あれこれ想像するしかない。
 病院の白い天井が末期の景色か、それとも自宅の床だろうか。札束を詰め込んだカバンを傍に置いて、散らかった部屋で一人死んでいった作家がいた。あの流麗な文章とは別に信じられる物がお金だけというのが悲しい。
 そのお金も銀行に預けることすら不安で手許に置いていたのだ。
 ――金なんざ、あの世に持って行ける訳でもなし……世の中、金じゃないぞ。
 私が小説の中で登場人物の一人に語らせた台詞である。多分、それを書いていた時の私の脳裏には老作家の最期の姿が映っていたと思う。
 私の近所でも昨年の秋、独り暮らしの九十近い老女が亡くなった。長く古物商をしていた人である。私はその老女から仏壇の供え物の果物やお菓子をしょっ中、いただいて(独り暮らしでは食べ切れないので)世話になったので、もちろん葬儀に行った。身内は誰もおらず、葬儀の客は皆、近所の人達であった。香典は用意したが、それを受け取る人がいないので寺の住職は持ち帰るようにと言った。寺には生前、老女が永代供養の費用をすでに払い込んでいた。後は民生委員が後始末して、残った財産は国に没収されるという。簡単なものだった。何だ、これでいいのかと、私は妙に安堵した。形見分けに小さな鏡台を一ついただいた。今、その鏡台は次男が使っている。
 頭を染める時にちょうどいいらしい。次男の頭は、ほとんど金髪である。
 私も、いたずらにじたばたせず、書き残したものはないか、用意万端調えて、従容として死にたいものである。
 その前に両親を見送るという大事な仕事があるので、この一文は両親には見せられない。現在、親の介護が重要な課題となっている女流作家が何人かおられるので、それを手本にしたいと思っている。
 さて、この度、単行本にまとめられることになった『斬られ権佐』は、あらかじめ死が約束された話である。この作品では死を粗略に扱わないことに注意を払った。余命いくばくもない権佐が家族のために必死で生きる姿を描きたかった。
 淡い水彩画のような色調に仕上がったと担当編集者が感想を洩らしたので、私の試みの半分は成功したようだ。
 この作品を書いている途中、偶然に末期癌患者を在宅で看取った家族のドキュメントをテレビで見た。
 とても天気のよい午前中、日光浴をさせようと患者のベッドをベランダに運ぶ途中で息絶えた。まだ三十代後半の男性であった。カメラは死の瞬間まで克明にその表情を捉えた。まことに最期は呆気なかった。しかし、妻はすぐに死亡時刻を確認して、てきぱきと主治医に連絡を取った。冷静であった。
 葬儀の時、何年ぶりかで髪を切った妻の顔が若々しく見えた。微笑む夫の遺影と向き合った瞬間、さすがに込み上げるものがあったようだ。しかし、彼女は唇を引き結んで、ぐっと堪えた。その表情は私がどのように筆を駆使しても表現しきれないものだった。
 だから、権佐が死んだ時、妻のあさみの表情は書けなかった。涙一つこぼさなかったと簡単に流した。あさみが本当に泣いたのは、それから何年も経ってからのことである。

 姑の月命日には菩提寺から住職がやって来る。仏壇の世話は面倒なものであるが、普段はろくに御飯もお水も上げず、放り出しているありさまなので、月に一回ぐらいは供養のためにお経を上げて貰っている。
 住職には息子がいて、この息子も家に来るが、私としてはちっともありがたくない。人の顔さえ見れば寄付寄付と騒ぐ男である。腹立ち紛れに二千円を出すと、前は三千円いただきましたと、しゃらりと言ってのける。領収書も出さない。税務署に訴えてやろうかと本気で思う。しかし、住職は好きだ。フーテンの寅さんの映画に出てくる御前様のように穏やかで徳を感じさせる人だ。住職は和讚というのだろうか、七五調の歌を唱えることが多い。花尽くしである。人生はこの世の花の姿にたとえられるらしい。
 読経を終えた住職へお茶の代わりにお酒を差し上げたことがある。(息子はコーヒーのアメリカンを所望する。くそッ)普段は心臓の持病があるので、家族からお酒を止められているらしい。内緒で差し上げた。
「ねえさん、年を取ると何も彼も悪いことばかりではないぞ」
 住職は、おいしそうにお酒を召し上がりながら言った。
「いいこともありますか?」
「ふん、酒の味がよくなる」
 そうか、悪いことばかりでもないか。気がつけば、私も日本酒の手が上がっている。

『斬られ権佐』を書いている途中で、私は般若心経を暗記した。一つには権佐の供養のために何かしたいと考えたことと、もう一つは、この年になって暗記などというものが果たしてできるのだろうかと、自分を試す意味があった。案外、覚えられるものである。
 気持ちが落ち着かない時は、これを唱えることにしている。不思議に安らぐ。「命の母」と般若心経が更年期の私の特効薬である。
 そこの人、今、笑ったな?


【宇江佐真理さんの本】

『斬られ権佐』
単行本
集英社刊
5月24日発売
定価:本体1,600円+税
プロフィール

うえざ・まり●作家。
北海道生まれ。
'95年に「幻の声」でオール讀物新人賞、'00年『深川恋物語』で吉川英治文学新人賞、'01年『余寒の雪』で中山義秀文学賞を受賞。著書に『泣きの銀次』『銀の雨』『紫紺のつばめ』『涙堂』等。



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