|
|
イトケンシュタインこと伊東乾は、不良(ワル)である。なにしろ、指導が悪いからといって、院生の指導教員をはずされたというのだから、札付きである。だからといって、セクハラが原因ではない。東京大学に情報学環というよそからはよくわからない大学院コースができたとき、作曲ができるからという理由で助教授に採用された。グローバルマーケットで日本が勝負できる唯一の産業、デジタル・コンテンツ産業でアニメのテーマソングでも作曲するために、東大生を養成するのか、粋な選択だね、と思ったがそうでもなさそうだ。 指揮者、作曲家、学術博士、才能教育や情報リテラシー教育の専門家、失敗学プロジェクトのプロデューサー、それに今回はノンフィクション・ライターの肩書きが加わった。こうやって書き並べてみると、多芸多才のマルチタレントのように見えるだろう。だが、わたしにはわかる。イトケンは不器用なヤツだ。自分が納得したことしかできないために、はたからは無方向と見えるくらいに多方面に首をつっこみ、結局はたったひとつの自分というプロジェクトしか満足に遂行することができない、不器用で善良な男だ。かれの作品の読者には、かれのこっけいなまでのまじめさが伝わってくるだろう。 イトケンはオウム信者で地下鉄サリン事件の実行犯、豊田亨の同級生だった。たまたま席を並べただけでその後の人生のコースを分かった元同級生が死刑の判決を受けたからといって、義理立てする必要なんかない。だが、ある種切実な動機に動かされて、かれは上九一色村(当時)を訪れ、サリン実行犯の模倣を試み、豊田被告を拘置所に何度も訪ね、そして数年間にわたって自分の持てる能力のすべてをつぎこんで本を一冊書いてしまう。このなかにないのは、かれの音楽畑の才能ぐらいだろうか。そのあいだに、ゼミ生を巻きこんで、獄中の豊田被告との往復書簡を実現し、マインドコントロールの実験を試み、失敗学のプロジェクトを立ち上げてしまう。危ない教師、でないわけがない。イトケンにこれだけのことをやらせた東京大学は、フトコロが深い、と言わなければならない。 それというのも、1995年3月20日、帽子を目深にかぶり、マスクを付けコートを着込んで、大きな荷物と傘を持って地下鉄に乗り込んだのが、なぜ自分ではなかったのか? という問いを、かれが忘れることができないためだ。サリン事件には、エリートの化学者が関係していた。オウムのプロジェクトは、医師や科学者を必要としていた。それもまじめで誠実で、正義感や向上心が強く、だが恐怖やストレスにつけこまれやすい青年が……。オレのことじゃないか、と思わないでいられるあなたはしあわせ者だ。 恐怖によるマインドコントロールなら、歴史にはいくつも覚えがある。地下鉄サリン事件は、オウム教団という小さな組織の犯罪だったが、これが企業や軍隊や国家などの、大きな組織の大きな犯罪だったら? 銃剣を構えて生きた捕虜に突撃させる旧日本軍の新兵訓練も、もっとも効率よくユダヤ人を「死の工場」へ送り込むナチの官僚の計画性も、もとはといえば、同じマインドコントロールの結果じゃないのか。「ふつうの人間」を殺人マシーンに仕立て上げる恐怖の技術は、今でも再生産されている。それなら、わたしたちには失敗から学ぶ以外に、どんな自衛の方法があるのか? そして今、目の前に、生き証人がいる。この証人は、弁明を潔しとせずに毅然として沈黙を守り、自らの罪を引き受けて従容(しょうよう)と死に赴こうとしている。教祖の麻原彰晃が支離滅裂な妄言を残したまま死刑台に送られようとしているときに、あれはいったい何だったのか? を語ることのできる者は、自ら手を下した当事者以外にいない……。 ノンフィクションには、語られる対象と、語る私とのあいだの絶妙のバランスが必要だ。職業的なノンフィクション・ライターには、自分をできるだけ消して対象に語らせるやりかたと、自分のキャラクターを前面におしだす「私」ノンフィクションとのふたつがあるようだ。だが、イトケンのこの作品には、語られる対象と、語るかれ自身との奇跡的な平衡がある。豊田被告について「何が彼をそうさせたか」を語り終わるときに、読者は、語り手のイトケンの人生をもまるごと聞き終わっているからだ。紆余曲折を経たかれのアカデミックな(とは言えない)経歴、多方面に広がるかれの関心と活動、大学におけるかれの教育実践、そして、かれの父親の不幸な抑留体験と気丈な母親の不屈の意志までも。 ほんもののヴィトゲンシュタインは、「語りうることについては、すべて語り尽くし、語り得ないことについては沈黙しなければならない」と説いた。イトケンシュタインは豊田被告が語ろうとしないことを、語らせようとする。死と引き替えに沈黙を守ろうとする豊田被告に、「語れ」と呼びかけるには、豊田被告の死に相応するだけの生の重みを賭けなければならない。粉飾も虚飾もなく、これだけの自分のあるがままを、全体重をかけてさしださなければ、彼の沈黙を溶かすことはできない。 本書の終わりのほうで、イトケンはこう呼びかける。 「豊(トヨ)さん。…… イモを植えてほしい。 俺らはそのイモに、新しい契約の水を掛けよう。」 ここまで読んだとき、わたしは不覚にも涙した。「イモ」という想定外のメタファーに意表を衝かれたからだけではない。この不器用な表現の背後に、細い糸のつながりのような「契約」への必死さ、祈りにも似た切実さを感じ取ったからだ。 本書でわたしたちは、伊東乾というひとりのノンフィクション・ライターの誕生を見るのではない。伊東乾というひとつの感性と知性、断片的な専門には収まりきれないまるごとの存在を見る。この才能を生かしきれないとしたら、その世の中のほうが貧しいというべきであろう。 |
プロフィール
1948年富山県生まれ。 著書に『生き延びるための思想』『脱アイデンティティ』『女という快楽』『サヨナラ、学校化社会』等。 |
|