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活字ばなれが言われて久しいが、最近、読書人口が増加する傾向にあると聞いた。ことに若い人たちの読書習慣が復活してきたというから、もし事実なら頼もしいかぎりだ。 一時はテレビゲームにうつつを抜かす少年ばかりが目だって、日本の文学の将来を懸念していたのだが、その彼らがゲームには飽きて読書でもやってみるかと言い始めたらしい。ゲームを真剣に遊んだことがないので、飽きるという現象がどういうものか、僕にはよく分からないけれど、読書の長所はよく分かる。 読書はその作品の中に読者自身の空想世界を広げる余地がある。ゲームは情報はどんどん送り出してくれるかもしれないが、見たままありのまま以上には、想像力をかきたてるものがあまりないのではないか。そこへゆくと読書は同じ本を読んでも思い描く情景は人それぞれで、イマジネーションの広がりは際限がない。 僕の作品のシリーズキャラクターである浅見光彦という人物が7人の漫画家によってコミック化されたが、7人7様、生みの親の僕が感心するほどに異なる。それを「浅見光彦倶楽部」のクラブハウスで展示して、来館者に人気投票してもらったら、僕やスタッフの予想とは異なる意外な結果が出た。 テレビドラマの浅見光彦役はこれまでに6人の俳優が演じているけれど、どの人が最もふさわしいかについて、視聴者の意見はさまざま。「水谷豊さんがよかった」という人もいれば、「榎木孝明さんがいい」「やっぱり辰巳琢郎さんよ」と侃々諤々(かんかんがくがく)である。 登場人物ひとつ取ってみてもこれだから、拙い文章で綴られた風景やシチュエーションなどから、読者が思い描く情景は千差万別。時にはストーリーの結末まで異なった受け止め方をすることがあるらしい。『鄙(ひな)の記憶』という作品では、犯人が誰だったのか――で意見が分かれたそうだ。僕としてはよく分かるつもりで書いたのだが、読後の余韻を残す意図で、いくぶん曖昧な表現になったことから、いろいろな解釈が生じたようだ。 本格ミステリーの条件に「きれいに割り切れること」というのがあるそうだから、これがはたしていいのか悪いのか分からない。それはともかくとして、こういう曖昧さは映像表現ではありえないだろうし、逆にいえば、表現したくても難しいにちがいない。 小説を読む楽しさ面白さは、主人公に感情移入できることにもある。初めはもちろん客観的に主人公の行動を眺めているつもりでいても、いつの間にか主人公の中に入り込んで怒ったり喜んだりしている自分に気がつく。主人公の五感を備えた自分が、物語世界の中で行動し、主人公の目で見、耳で聞き、主人公の頭脳で考える。 当然のことながら、書き手である作者の側も、主人公と同じ視点や立場に立って小説を綴っている。時には対立する相手や犯人の視点に立つこともある。そのつど、その人物に感情移入して「性格づけ」をするのだから、単に想像力だけでなく、ある程度は自分の中にも、当該人物が持つであろう性格が潜んでいるのかもしれない。 「多重人格」をテーマにした小説や映画がよくあるが、まんざら絵空事とばかりは言えない。最近、看護婦4人がグルになった連続殺人が起きたが、ひとの命を救う優しいイメージの「白衣の天使」が、しかも4人揃って悪魔も驚くような犯罪を平然として行うのだから、何でもありの風潮に、いよいよ歯止めが効かなくなってきた。 「事実は小説よりも奇なり」というのは、もはや当たり前のことである。たとえばこの4人の看護婦による犯罪など、小説で書いたりすれば、ほとんどの読者は「そんな馬鹿な」と批判したり非難したりするだろう。以前は警察官による犯罪をテーマにしたミステリーもタブーとされた時期があるそうだ。つまりフェアでないという意味らしいのだが、警察官の犯罪などはいまどき珍しくも何ともなくなった。アメリカで起きた連続テロ事件も、おそらく小説で書いたら相手にもされなかっただろう。戦争状態でもないのに、大型旅客機が、それも4機も同時にハイジャックされ、つづけざまに超高層ビルやペンタゴンに激突、文字通りビルを瓦解させるなどというのは常識をはるかに超えている。 探偵小説やミステリーと呼ばれる文学は、本来、読者をいかに脅かすか、怖がらせるか――というところから始まったようなものだが、いまや意外性や過激な点では事実のほうがはるかに強烈である。かえって、ミステリーは、むしろ癒し効果のある空想世界を楽しむ文学――と位置づけたほうがいいのかもしれない。 考えてみると、僕の作品のメインキャラクターである浅見光彦という人物は、まさに癒し系の人間だ。母親と兄夫婦とその2人の子とお手伝いと、1つ屋根の下に住む「居候」という、いかにもファミリーな設定は、おそらく空前絶後(?)の主人公だと思う。おまけにお手伝いには「坊っちゃま」と呼ばれ、世間からはマザコンと見られるようなキャラクターは、およそミステリーに相応しくないはずなのだが、その彼が絶妙な具合に探偵役をこなしている。若い女性の目から見ると、どこにでもいそうな「隣のお兄さん」というイメージで、畏敬や憧れを抱くのと同時に親しみを感じ、時には母性本能をくすぐられるような存在でさえある。 じつをいうと、この浅見光彦のような人物を探偵役にしようとは、ミステリーを書き始めた頃は僕自身、考えてもいなかった。その証拠に、デビュー作である『死者の木霊』の主人公は長野県飯田警察署の竹村岩男という部長刑事であった。バーバリーのよれよれのコートを愛用するところから「信濃のコロンボ」とあだ名された田舎刑事だ。主人公の設定という点ではいかにもストレートで新味に乏しい起用といえる。 この田舎刑事に対して、警視庁捜査一課のキレ者として登場させたのが岡部和雄という警部である。これまたあまりにも真っ当で何の変哲もない。しかし、正攻法で事件捜査に当たる「探偵」はかくありたい――というのが僕の考え方でもあった。 実際、デビュー後かなり長い期間にわたって、この2人の探偵がそれぞれ独自に活躍するシリーズを断続的に書いている。「本格」という意味からいえば、むしろそのシリーズのほうが僕の作品の中では本格性がある。それに飽き足らなくなったのは僕の浮気の虫のせいかもしれない。3番目の長編『後鳥羽伝説殺人事件』という書下ろし作品を執筆中に、突如思いついて素人探偵を登場させてしまった。それが浅見光彦である。 今回3カ月連続で集英社文庫から刊行された3つの作品では、前記3人の「探偵」が次々に活躍する。3人が誕生した経緯については、それぞれの巻末の自作解説で触れているので、ここでは詳しく述べないけれど、いずれもそれほど突拍子もないキャラクターではない。むしろ、浅見光彦がどこにでもいそうな「隣のお兄さん」であるように、2人の警察官もいかにも実在感のある、ある意味では平凡な捜査官といっていい。 じつは僕の作品に複数回登場した「探偵」たちはこの3人ばかりでなく、ほかにも数人がいる。すべて書いている時はシリーズキャラクターになる可能性を想定したもので、中の1人(?)はパソコン探偵である(集英社刊『パソコン探偵の名推理』参照)。シリアスなものもあればユーモラスなものもある。本格もあれば変格もある。いまでこそ浅見光彦が僕の小説の代名詞のごとく思われがちだが、ほかの「探偵」たちが消滅してしまったわけでは、決してない。僕の作品群を片っ端から愛読してくれている読者の中には、「竹村警部物を書いてくれ」あるいは「パソコン探偵をなぜ書かないのか」と注文をつけてくるムキも少なくないのである。 ミステリーのジャンルはじつに多様化していて、ホラーやサスペンスはもちろん、バイオレンスやSF、冒険小説などまで、広くミステリーに含まれるような考え方もある。その一方では、本格ミステリーの範囲を厳しく律する人々もいる。僕は理論的なことはよく分からないなりに、「ミステリー」というと捉えがたいものを感じてしまうので、自分の書く作品を「推理小説」と呼びたい気がする。「本格推理小説」となれば、いかにも本格的に謎を提示し、本格的に謎解きをするような小説をイメージできる。 「推理小説」を標榜しても、単純に推理=謎解きの部分をエンジョイしたい読者もいるだろうし、小説=物語性に浸りたい読者もいるにちがいない。僕のような平凡な思考の作者は奇想天外な謎やトリックは思いつかないから、どちらかというと物語性を重視することになる。人間の愛憎や社会にはびこる多くの矛盾をテーマに、時間的空間的な「旅」や、時には超常現象的な「不思議」に彩られたストーリーを編み出して、「こんな面白い話がありますよ」と読者を喜ばせることに、自分のアイデンティティを定めている。王様が死刑の宣告をするのを引き延ばすために、次から次へと面白い話を語ったシェヘラザードの心境でもある。 小説世界にはいくつもの入口がある。ミステリーという大きな入口を入ると、さらにいくつものドアがある。どの入口を入りどのドアを開くかは読者の自由であり権利であり、それ自体が読書の多様な楽しみ方の1つでもある。その時、読者であるあなたは尊大でわがままな王様になる。 |
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【内田康夫さんの本】
名探偵の事件簿−竹村岩男』 集英社文庫 集英社刊 好評発売中 定価:本体533円+税 ![]() |
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プロフィール
1934年東京都生まれ。 コピーライター、テレビCM制作会社を経て、'80年『死者の木霊』でデビュー。著書に『後鳥羽伝説殺人事件』『天河伝説殺人事件』『はちまん』『パソコン探偵の名推理』等多数。 |
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