青春と読書
 小社では、創業80周年記念企画として、本年5月から、『田辺聖子全集』(全24巻・別巻1)を刊行することになりました。
 今号ではその刊行に当たって、まず、古くから田辺さんと親交が深く、同じ伊丹市のご町内にお住まいの宮本輝さんを田辺さんの御自宅にお招きして、お二人でお話をしていただきました。

はじめての出会いと震災体験

宮本 田辺さんがカモカのおっちゃんと、ぼくの芥川賞の受賞の日に御願塚(伊丹市)のアパートに訪ねてきてくださったのは、もう27年も前になりますね。
田辺 あら、もうそんなになります?
宮本 ぼくはあのときまだ30歳で、今年もう57ですから、27年のお付き合い。
 あの節は、ほんとうにありがとうございました。
田辺 なんだかたくさんの人が詰めかけて、もう右往左往という感じで。楽しかった(笑)。
宮本 あの狭いアパートにね。
田辺 あの頃は宮本さんも若くて。
宮本 それは若いですよ(笑)。
田辺 おとなしくって味のある青年だった。
宮本 はじめてお会いしたとき、自分でも気がついてなかったんですけど、実はかなり重症の結核に罹っていたんですよ。
田辺 あら、ほんと? それでおとなしかったのかしら(笑)。
宮本 その頃の写真を見ると、すごく痩せていて。体調の悪いまましばらくほっといたんですが、ついに観念して病院へ行ったら、「ようここまでほっといたな」っていわれて、即刻入院。
田辺 へえ。
宮本 ちょうど冬で、寒くて熱があったから、丹前みたいなパジャマ着て、パジャマの上からセーター着て、そのまま病院に行ったんです。行った途端に身体検査させられたんですけど、それだけ着ぶくれしていたにもかかわらず、体重が47キロしかなかった。
田辺 ほんと?
宮本 それで、70キロぐらいあるようなおばさんの看護婦さんにお尻をバーンとたたかれて、「あんた、男のくせに何やの、これ」とかいわれて、「しゃあないやん、病気やねんから」って(笑)。
田辺 そうでしたか、知らなかった。そのときが最初で、その後、伊丹の駅前の私のマンションに来てもらってね。あれはなんのときだったのかな?
宮本 あれは、「文學界」でやる、ぼくの芥川賞受賞の対談のお相手を田辺さんがしてくださったんですよ。
田辺 ああ、そうでしたっけ。あのときはカモカのおっちゃんもまだ元気で、男同士でダンスしたりして大変だった。
宮本 カモカのおっちゃんとダンスして、怖かったですよ(笑)。
 あの2、3年ぐらい後ですか、こちらの梅ノ木(伊丹市)のほうに引っ越されたのは。
田辺 昭和54年に移ったのかな。ここを建てたのは59年だと思います、たしか。
 そうして阪神大震災が起こったとき、まだ家の中がごちゃごちゃひっくり返ってる真っ暗な中、宮本さん、「どないですか」って見に来てくだすったわね。
宮本 あのときぼくは中野(伊丹市)にいて、その中野の家が全壊してしまい、この田辺さんの家のすぐ近くにある平松町の家内の実家へ〈疎開〉してたんです。そこは、お皿なんかが割れた程度で、家自体の被害はそんなにひどくなくて。田辺さんのところ、どないかな思って。
田辺 同じ伊丹市内でもほんの何キロかの違いで被害にずいぶん差があったでしょう。ここも、ちょっとひびが入ったくらいで。
宮本 でも、大事な小物がずいぶん割れましたでしょう。
田辺 そう。ガラス製品がいっぱいあって、ドアを開けるとガラスが雪崩れてきて、もう部屋中全部がガラスの山だった。
宮本 震災のときのエッセイを読んだら、おっちゃんが一人でごそごそ何かやってて……。
田辺 そう。私は、真っ暗や思って、義士の討ち入りみたいにろうそくを振りかざして一所懸命あちこち調べてんのに、なんか向こうのほうで音が聞こえるから行ってみたら、おっちゃん一人でテレビつけてる。「電気、ついたらついたていうてください」ってどなって(笑)。
宮本 書いてありましたよね。「これが男っちゅうやつや」って(笑)。

貴金属がぎっしり詰まっている『感傷旅行』

宮本 田辺さんは、芥川賞はおいくつのときでした?
田辺 36ぐらいじゃないかしら。
宮本 ぼくは30でしたけど、芥川賞って、もらうとやっぱり周囲の環境やらなにやらが劇的に変わる。不思議な賞ですね。田辺さんは直木賞の選考委員ですし、ぼくも芥川賞の選考をやってますけど、賞って、そのときの水ものみたいなところもあるし、つくづく人間の運不運というのを感じますね。
田辺 みんながいい意見を出してても、何か話の流れで、だんだん流れが変わっていくということもあるから。ほんとうに賞って水ものね。
宮本 選考にかかわるようになってから、しょせん新人賞なんだという気持ちを持って臨むんですけど、やっぱり芥川賞って、ほかの新人賞と違う、何か特別な力がありますね。
 そういう意味でも、『感傷旅行』の芥川賞受賞というのは、田辺さんにとってやっぱり大きなエポックですよね。
田辺 ただ、書いたときには、まさかそんなん来ると思ってなかったし、あれは、「航路」という同人誌に発表したもので、目にもの見せてやろうと思って書いたわけじゃないんやけど、でも同人雑誌というのは案外そんなとこがあるでしょ。その頃の私は、いつもいつも何かやさしいのを書いてたから、たまにはちょっとぐらい暴れ回ったのを書いて同人たちを驚かしたろと思って。あれはそういうはったりで出来上がったの(笑)。
 そしたら、芥川賞でしょう。だからもらってから困って。ほんとうは私、純文学なんかじゃないのよという感じで(笑)。それで、その後、「小説現代」とかから注文が来てお金くれはるっていうから、いや、早いねんなと思って、書いたらすぐ通って。あれ、あんなのでいいのかなって、せっせと書き始めたのね。
 そしたら、たたかれたわけ、芥川賞をもらってあんなことを書いてるって。
宮本 評論家ばらに。
田辺 評論家とか、批評する人たちね。それからは、批評なんかもちろんすこーんと全然出てこない。場が違いますからね。で、「小説現代」とか「オール讀物」なんかにばっかり書いているうちに、こっちのほうだったら書けるわという自信が出てきた。
宮本 純文学という妙な呪縛みたいなものがないですからね。
田辺 それに、挿絵が入るし。挿絵がうれしいの。「ああ、このヒロイン、結構、美女に描いてある」とか(笑)。
宮本 ただ、こういう言い方は僭越ですけど、『感傷旅行』には田辺聖子という作家が内蔵している貴金属みたいなものがぎっしり詰まってますね。
田辺 そうですか。
宮本 昔から、作家は処女作に向かって成長するという言い方がありますけど、あれが田辺さんの処女作というわけではありませんが、広く世の中に出た最初の作品ですよね。
 この『感傷旅行』には、今の田辺さんの膨大な仕事の一つのエッセンスみたいなもの、不動なものがあるんだなというのは、今度改めて読み直してみてつくづく感じました。
田辺 自分では全然そういうふうに思わなくて。今から思うと、いかにも見た目によろしくというケーキみたいに、あっちこっちからいろんな材料を寄せ集めてやったなあ、なんて感じなんですけどね。
宮本 いや、そんなことをおっしゃっているけど、なかなかあやしいものがいっぱいある小説ですよ。あの森有以子という女性は不思議な女ですし。
田辺 ただ、『感傷旅行』の頃は、小説とはこうあらねばならぬという力みがすごくあったと思う。私としては、どちらかというと、映画化された「ジョゼと虎と魚たち」とか「雪の降るまで」といった短編が好きなんだけど、考えてみたら、やっぱり『感傷旅行』から出てきたからこそ、だんだんとそっちのほうを書けるようになったのかもしれないですね。

どちらが裏か表か

宮本 今度、第1回配本の第5巻(感傷旅行/短編II)の月報で、「この世ならぬもの」というのをキーワードにして、田辺さんの小説の感想を述べさせてもらったんですけど。
田辺 素敵なのを書いていただいて、ありがとうございました。
宮本 「この世ならぬもの」ということをうまく説明するのはむずかしいんですけれど、たとえば、『平家物語』が描く世界は、いくつかの例外を除いて、この世のものなんです。ところが、『源氏物語』というのは徹底的にこの世ならぬものを描いている。
 2、3年前から田辺さんの『源氏がたり』と原文を併せ読んだりしていくうちに、やっとこさ紫式部という人が紙の上にのせた、歌舞伎でいうと板にのせた、この世ならぬ世界のあやしさみたいなものがわかってきて、ああ、これって田辺さんの小説そのままやなって思ったんです。
田辺 紫式部と一緒(笑)。うれしいな。
宮本 一見、現実であるごく普通の素材を扱いながら、読んでいるうちに異次元の世界に迷い込まされていく、そんな不思議な「この世ならぬもの」。おそらく、それは田辺さんも結構意識してはるのとちゃうかなという感じはしたんですけど。
田辺 「この世ならぬもの」というのはわからないけど、でもね、だれも書いてないところで庶民の恋愛を書きたいとか、「ただ事」を書きたいというのはある。ただ事をいかにただ事ならぬものにするかというね。
宮本 それもファンタジーじゃなく、現実の娑婆、世間の中で、ごくありきたりの男と女が恋愛をする。
田辺 そう。時給何ぼで働いているような青年と女の子のただ事でない恋を書く。
宮本 そういうただ事ならぬものができたなあって思う小説は何ですか。
田辺 自分ではよくわからないんですけどね。ただ、いっつもいっつも夢がある。こういうふうな境遇の男の子や女の子で、こういうふうな出会い方をして、そしてうまくいって一生過ごせばいいけど、そううまくいかなかったとか。そういうふうなことをなるべくむずかしい言葉を使わないで平仮名で、それでいて品がよくってというのを書くのが、はじめから夢だった。
 それを大阪弁で書きたいんですよね。大阪弁やとぶち壊しになるという人があるかもしれないけれど、でも、大阪弁だからこそ余計品のいいものになるということだってある。
宮本 はじめて田辺さんと対談したときに、ぼくのことを「精神の底に七五調がある」とおっしゃいましたよね。
田辺 はいはい、ミヤモっちゃんは浪曲やからね(笑)。
宮本 たしかに、ちょっとひとり言いったりするとき七五調なんですよ。それって、小さいときに聴いた浪花節の一節やったり、おやじがよういってた川柳のかけらやったり、やっぱりもう身体に染まっている。
田辺 それは、とってもいい財産だしやっぱり大阪人の教養ですよ。大阪人って、しょっちゅう七五調でものいったりしてるからね。だから、宮本さんもそうだけれども、私も大阪から出ていかれないし、大阪弁を生かしたい。大阪弁って、恋愛小説で使ってて便利なんですね。
宮本 ぼく、何かで大阪を舞台にした短編を書いたときに、えらい怖いおじさんから手紙で、「あなたの大阪弁は間違っている。あなたはね、10分の1は神戸弁だ」といわれた。
田辺 シビアですね(笑)。
宮本 間違っているところに全部線を入れてある。確かにいわれてみればそうかなと。ぼく、おふくろが神戸の人なんです。それから、大阪弁書くときえらい気いつけるようになったんですけどね。
田辺 宮本さんが大阪弁使うとき、ものすごく字面に注意してはると思う。
 私らでもそう。「そうだんね」ていうの、平仮名の「ん」なんか書くと重くなるから、必ず片仮名でちっちゃく横に書くとか、いろいろ字面の工夫をする。いい大阪弁が耳に立っていってくれればいいけれども。
宮本 そうですね。ところで、よく田辺邸と宮本邸は、どっちが裏か表か訊かれるんですけど、この際はっきりさせときましょう。梅ノ木5丁目の田辺邸は6丁目のうちの裏です(笑)。
田辺 あら、私は「うちの裏にミヤモっちゃんおるよ」っていってるけど(笑)。
宮本 まあ、後から来たぼくが譲らないかんわな。先住民族はやっぱり大事にせないかん。
田辺 いやいや、ここは太っ腹なとこ見せて、譲りますわ(笑)。


【田辺聖子さん】

たなべ・せいこ●作家。
大阪府生まれ。
’64年『感傷旅行』で芥川賞を受賞。著書に『花衣ぬぐやまつわる……』(女流文学賞)『ひねくれ一茶』(吉川英治文学賞)『鏡をみてはいけません』『楽老抄ゆめのしずく』『姥ざかり 花の旅笠』等。
【宮本輝さん】

みやもと・てる●作家。
1947年兵庫県生まれ。
’78年に『螢川』で芥川賞、’87年に『優駿』で吉川英治文学賞を受賞。今年3月には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。この度、『田辺聖子全集』第5巻月報に寄稿。



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