青春と読書
 編集者のTさんから、橋本治さんの新しい小説『蝶のゆくえ』を書評してくれといわれ、いいですよと簡単に返事をして、ゲラが送られてきて、読んだ。で、ものすごく後悔した。
 なんのことだか、わからないか。
 つまり、その書評は、「青春と読書」という、その小説の出版元のPR誌で書かねばならず、ということは、そういう媒体ではハナから「誉める」というやり方しか存在しないわけで、はっきりいって、そんな目で見られるのがイヤだ! ということだ。だってね、『蝶のゆくえ』はものすごい傑作なんだから。
 問題が一つある(一つじゃないかも)、と思った。それは、『蝶のゆくえ』が「橋本治の小説」であることだ。
 橋本治は『枕草子』や『源氏物語』を大胆不敵に現代の日本語にしてしまう人だ。それから、映画や文学や日本美術や宗教や会社問題やその他諸々について(つまり森羅万象について)目も眩むような鋭い評論を書いて(それだけでも驚異的だが)、おまけに、次々とヒットさせてしまう人だ。
 ――と人々は思っている。そうすると、どうなるか。そういう人が書いた小説なんか読まなくてもいい、と思ってしまうのである。あるいは、そういう人が書いた小説は重要ではない、と思ってしまうのである。というか、そう思いたくなってしまうのである。要するに「橋本治の小説」だから、認めたくない、と思ってしまうのである。「橋本治は、あれだけ、他の分野で傑作を書いているのだから、小説もまた面白いなんて、あっていいはずがない」と思ってしまうのである。
 タレントや映画監督や詩人や学者(要するに、小説の専門家以外の人たち)の書いた小説を「世間」は認めたがらない。いわゆる「世間」が認めたがらないだけではない。小説の専門家である、文芸評論家や専業小説家も認めたがらない。彼らもまた、この点に関しては「世間」の味方なのである。
 彼ら(「世間」+それを応援する専門家)は考える。小説は小説しか書かないものが書くべきだ。なぜなら、なぜなら……えっ、なんで?
 それがなぜなのかを「彼ら」は追究しようとしないので、代わりにぼくが考えてみることにしよう。それは、「彼ら」が「小説というものはとてつもなく素晴らしいもの」で「天才の神業によってのみ書かれるべき」であり、それ故、「他にも得意技を持っている人間が書くべきではない」と考えているからだ。なんでもできておまけに小説(のような、芸術的奇蹟)まで書けてしまう、自分とはかけ離れた人間が存在することを、「彼ら」は認めたくないからだ。
 「世間」というものは、そのようにしか思考できないものなのである。
 ところで、『蝶のゆくえ』はその「世間」について書かれた小説だ。いや、もっと正確にいうなら、「世間」というものが、どういうものなのか、「世間」の実体である一人一人の個人は、なにを考えているのか(はたまた、「彼ら」が「考えている」と称していることが、ほんとうに「考える」という言葉で表現されるようなものであるのか)について、書かれた小説だ。
 この短編集の中には、どこにでもいるような若夫婦と、その若夫婦によって虐待され、ついには殺される(妻の連れ子である)男の子の話や、「4年制の女子大を出」て数年たった、ふつうに「自由」が欲しいと思い、ふつうに結婚問題で悩むOLの話や、長い結婚生活の果てに夫を亡くした妻の話や、社会に翻弄されたあげく夫の実家で暮らすことになる若夫婦の話がある。それらはどれも、テレビや雑誌に出てくるような話だ。みんなどこかで聞いたことのある話だ。でも、ここに書かれてあるように詳しく、人々の心の中が描かれたことのない話ばかりだ。
 ここで生体解剖されるのは、「世間」(の人々)の「心の中」だ。そして、それは、かつて近代小説の最大のテーマだったのではないだろうか。たとえば、フロベールは橋本治のように書いたのではなかったか。いや、橋本治は、フロベールが始めた仕事を、「世間」全体に拡大しようとしたのである。
 だが、「世間」(の人々)は、フロベールの小説も橋本治の小説も喜ぶまい。彼らが喜ぶのは、もっと甘く、夢みがちの小説なのだ。だから、いまや、そんな小説しか存在しないではありませんか。
(たかはし・げんいちろう/作家)


【橋本治さんの本】

『蝶のゆくえ』
単行本
集英社刊
11月26日発売
定価:1,680円(税込)



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