青春と読書
――今回、塩野さんがお書きになった『痛快!ローマ学』は原稿用紙にして500枚を軽く超える大作ですが、よく考えてみたら、中学や高校の授業で古代ローマを扱った部分なんて……。

塩野 高校の教科書でも、せいぜい10ページがいいところでしょうね。

――そんな分量ではカエサルの魅力も、ポエニ戦役をはじめとする数々の苦難を、ローマ人たちがどう乗り越えたかというドラマも書けるはずなんかありませんね。どうりで学生時代の世界史の授業が眠くてしょうがなかったわけだ。

塩野 私の場合は、学校の世界史があまりに退屈だったものだから「まさか本当の歴史がこんなにつまらないはずはないだろう」と思ったのが、歴史に興味を持つようになったきっかけでした。一種の反面教師ですね。だから、無味乾燥な歴史教科書にもけっして功徳がないわけじゃない(笑)。

――しかし、それにしてもなぜ学校の世界史の授業というのは、あんなにつまらないんでしょう? 『痛快!ローマ学』を読んで、「古代ローマ史ってこんなに面白かったのか」と目から鱗が落ちる思いでしたよ。

塩野 日本の学校教育では、数千年にわたる世界史をわずか一年かそこらで全部教えようというわけですから、どんなに熱心な教師がいて、がんばったところで、歴史の面白さなんて伝えられるはずもありません。やはり、それが最大の問題でしょうね。

――欧米の教育は、違うんですか?

塩野 聞くところでは今の日本では、小学6年生になってようやく歴史、それも日本史だけを教えるのだそうですが、イタリアの場合は違います。イタリアの小学校は5年制ですが、それこそ5年かけて、メソポタミアの時代から現代に至るまでの歴史をちゃんと教えています。

――やはり、歴史を大切にしているわけですね。

塩野 といっても、もちろん小学生が相手なのですから、たいした内容を教えられるわけではありません。レベルとしては、かなり易しい。しかし、それでも5年もかければ、かなりの知識を教えられることになるわけです。そして今度は中学に進学すると、そこでも3年間かけて、やはり古代メソポタミアから始まる世界史をやる。今度は、多少レベルを上げてね。といっても、私も息子の教科書を読んでみたのですが、漫画や挿絵がふんだんに入っているようなものですから、それほどむずかしいことを教えるわけではありません。

――しかし、レベルはどうであれ、イタリアの子どもは義務教育の間中、歴史の教育をみっちり受けていることになります。

塩野 しかも中学を卒業すると、今度は高校でまた世界史を教わります。イタリアの場合、普通高校と技能別の専門高校の2種類があるわけですが、大学進学を前提とした普通高校の世界史ともなると、相当なレベルのことを教えます。

――前に塩野さんからお聞きしましたが、イタリアの高校は日本で言えば大学の教養課程に相当するそうですね。

塩野 戦前の旧制高校を思い出していただくのが一番、日本人には分かりやすいでしょうね。古代ローマでは、良家の子弟に家庭教師を付けて「アルテス・リベラーレス」、日本語に訳せば「教養学課」として、ギリシア語とラテン語の文法、言葉を効果的に使うための修辞学、論理力を身に付けるための弁証学、そして数学、幾何学、歴史、地理の7学課を学ばせる習慣がありました。その伝統が現代にも残っていて、大学で専門教育を受ける前、つまり高校時代に教養学課をマスターさせることに今でもなっているわけです。

――大学がレジャー・ランドと化して久しい、どこかの国とは大違いですね。

塩野 英語で教養学課のことを「リベラル・アーツ」と言うのも、ラテン語の「アルテス・リべラーレス」の直訳。ローマの伝統が今でも生きているという一例です。だから、高校の歴史だからたいしたことはないだろうと思っては大間違いです。ローマ史なんて、それこそ一年間かけて教えるほどで、この段階で教養人として必要な、世界史に関する知識は一通り学ぶことになるというわけです。

――古代ローマ史だけで一年間! それは恐れ入る。

塩野 しかも、これに加えて、高校も3年になるとラテン語、ギリシア語の授業が始まります。

――ラテン語やギリシア語を学ぶなんて、たしかに古代ローマの教育そのままですね。

塩野 そのラテン語の授業で使われるテキストが、何だと思います? カエサルの『ガリア戦記』ですよ。

――高校生が『ガリア戦記』を原文で読むんですか?

塩野 なんと言ってもカエサルの文章は、あのキケロが絶賛したほどの名文なのですから、学習の材料としては最適なんです。

――そこまで教えられれば、相当な古代ローマ通になれますね。しかし、そんなに徹底してローマ史を勉強するというのも、やはりイタリアの学校だからですか?

塩野 いや、イタリア以外の西欧諸国でも基本的には同じです。古代ローマはヨーロッパ社会の原点であるわけですからね。といっても、もちろん誰もがラテン語を読めるというわけではありません。しかし、その程度の教養を持ったエリート階層がヨーロッパにも、そして、アメリカにも存在する。これは間違いない事実ですね。

――ラテン語どころか、日本語の古文だってろくに読めない我々としては、何とも元気のなくなる話ですね。

塩野 私が西洋史の物語をずっと書き続けている理由の一つは、それなんです。つまり、たとえ欧米のエリートたちのようにラテン語を読むのは無理としても、せめて彼らと同じ程度にはヨーロッパ史の知識を持ってほしい。その思いがあるからなんです。

――たしかに、日本の学校教育で教えられる程度の歴史知識では、いつまでたっても日本人は欧米人から、一人前の教養人として相手にされないでしょうね。

塩野 ビジネスの話だけをしているのであれば、西洋の古代史なんて知らずとも何とかなるでしょう。しかし、本当に彼らと対等に語りあおうと思えば、やはり基礎的な教養として知っておいて損はありません。そもそも対話というのは、相手と同じ土俵に乗って初めて成立するものですからね。

――日本がいつまでたっても、外交や経済の世界でまともに認知されないのは、たしかにそのあたりが大いに関係あるかもしれませんね。

塩野 しかし、そうした実利実益を持ち出すまでもなく、ローマ史に限らず、歴史くらい面白いものはない。何しろ、歴史というのは人間の、それも飛びきり上等な男たちが織りなすドラマなのですから。こんな面白い物語を知らずにいるよりも、知っておいたほうがいくらか人生は愉しくなる。そうじゃありませんか?

――学校時代、歴史の授業でしょっちゅう居眠りしていた私も、今回の『痛快!ローマ学』でようやく目が覚めました(笑)。ぜひとも、この本は大人ばかりでなく、若い人にも読んでほしいですね。何しろ、今の日本は10年以上続く不況で、新聞を読んでいても暗いニュースばかりではありませんか。ローマ人たちの痛快な物語を読んで、ぜひ元気を出してもらいたいなあ。

塩野 ええ、実はそれこそが私が今回、この本を執筆した最大の動機なんです。古代ローマだって、何も順風満帆に発展してきたわけではない。小さな都市国家として出発したローマが、地中海世界の覇権国家となるまでには、それこそ数え切れないほどの失敗や挫折がありました。

――ちょうど今の日本みたいな混迷の時期もあったそうですね。

塩野 カルタゴを降したポエニ戦役直後の時代が、それです。今の日本が高度成長期の旧体制をそのまま引きずっているために、経済も政治も迷走状態に陥っているのと同じように、古代ローマ人たちも地中海世界の覇権を獲得したあと、言うなれば「体質改善」を怠ったために、大いなる混迷時代を迎えることになりました。

――その混迷を打破するため、今で言う構造改革を断行したのが英雄カエサルというわけですね。

塩野 ですから、ローマ人だって失敗をしなかったわけではありません。ただし、彼らが他の民族と違っていたのは、たとえいったんは混迷状況に陥っても、そこから脱出しようと努力しつづけた点にある。今の日本と同じく、古代のローマでも改革はけっして簡単ではありませんでした。抵抗勢力が現われてくるのは、いつの時代、どこの国でも同じです。しかし、そこで諦めることなく、勇気を持って改革を行なおうとしたからこそ、ローマはさらに飛躍を遂げてローマ帝国になったのです。

――「日本人よ、古代ローマを見習え!」というわけですね。

塩野 古代ローマ人も、日本人もしょせんは同じ人間ではありませんか。彼らにできたことが、私たちにできない道理はない。私はそう信じているんですよ。


【塩野七生さんの本】

『痛快!ローマ学』
単行本
集英社刊
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定価:本体1,700円+税

プロフィール

しおの・ななみ●作家。
東京都生まれ。
'82年に『海の都の物語』でサントリー学芸賞を受賞。'02年にイタリア政府から国家功労章を授与される。現在ローマ在住。主な著書に『愛の年代記』『塩野七生ルネサンス著作集』『ローマ人の物語』等。



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