青春と読書
 「思いは入れない方がいい」
 感情移入をしない方がいいという意味だ。その言葉どおり、ハルさんの唄や段物(語り物)は、抑揚やビブラートもなく、まっすぐに鼓膜をつき破る。「葛の葉子別れ」「石童丸」「巡礼おつる」「小栗判官照手姫」……。それでいて心をゆさぶらずにはおかない。
 瞽女(ごぜ)唄継承者として国の重要文化財になった長岡瞽女、小林ハルさんは今年103才。拙著『鋼の女―最後の瞽女・小林ハル―』の取材ではじめて会った時は86才であった。
 140センチ足らず、白髪を短く切りそろえたその女の前で思わず正座した。自らに厳しく生きて来た品位と風格が滲んでいる。
 懸命に唄うその声は、ハルさんの生活そのものであり、生きて来た証である。
 「思いを入れない」でひたむきに唄い語る姿は、本物の芸能者に通じるものだ。
 「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修業」
 この女は時々哲学的なことばを口にする。生後100日でそこひにかかり失明。7才で冬の信濃川の土手に立ち、喉から血を出し、声の出なくなるまで修業。9才から親方に連れられて旅に出る。その人生は、地を這うような厳しさの連続だ。
 瞽女は、3、4人連なってまんじゅう笠に手甲脚絆わらじばきで大きな荷を背負う。先頭が少し目の見える女。その肩に手を置いて一列に連なって旅をする。途中、木の洞やお宮に置いていかれたり、想像を絶するいじめや意地悪にも遭う。それでも目の見えないもの同士、一緒に歩かずにいられない。
 そんな時もハルさんは、決して人のせいにしない。自分で全て受け止めて、自分をきたえた。打たれれば打たれるほど磨かれる鋼のような力。暗さをつきぬけ、明るさに転化させるエネルギー。それが年を経るごとにハルさんを美しくした。
 「なんとか目の見えない娘を一人立ちさせたい」という母の思いをしっかり受け止め、感動的な素直さで自分を培って来たのだ。
 いい人と旅をする時は、祭りのように楽しい。意地が悪い人やいやな人と旅をする時は自分をきたえるための修業だと考える。
 「人間は諦め一つ、諦めれば思うことはない」
 ハルさんの実家は区長をつとめた家柄だが、戦後、体を悪くして帰った時に受けた仕打ちに、二度と家には帰らないときめる。情や未練を断ち切り、自ら決断する。孤独なまでの潔さが、小林ハルという内に硬い実を持つ個を育んできた。
 「人の上になろうと思えばまちがい。人の下になっていようと思えばまちがえない」
 いつも人の下になって、犠牲になる道を選んできた。弟子のため、養女のため、ひどい目に遭っても、それを受け止める。老境に入ってもこれでもかこれでもかと難儀はやってきた。
 “胎内やすらぎの家”という養護盲老人ホームに入る頃になって、ようやくその唄と語りが日の目を見、国の重要文化財、黄綬褒章、吉川英治文化賞と認められても、ハルさんは変らない。いつも以前と同じ小林ハルがそこにいる。
 ハルさんは、普通の女として生きたいと願ってきた。瞽女という職業も、決して特殊なものではなく、他の仕事と同じなりわいなのだ。料理も掃除も、縫い物も、普通の女以上に出来る。身ぎれいで、着物も帯も目が見えるのではと思うほど、色や柄が調和している。一度見てもらったら、その組合せを手ざわりで憶えているのだ。
 目が見えないというハンデがありながら経済的にも精神的にも自立した女の先駆者である。その唄や語りは、最近はやりの自己実現などという甘いものではなく、生きるための崖っぷちの手段なのだ。男性が思い描く瞽女へのロマンや哀愁の入りこむ余地のない見事な生活者。私が小林ハルさんを書きたいと思ったのは、そこにある。
 「瞽女と鶏は死ぬまで唄わねばなんね」老人ホームでも事あるごとに唄い、晴眼の弟子に教え、99才、白寿で新潟市の舞台で唄った。101才、102才、年ごとに可愛くなり、寮母さんの選んだ、グレイに紅の小花もようのブラウスにビーズの紅い指輪が似合った。103才、集英社から『鋼の女』が文庫になるのを機に訪ねると、個室は空で、入院していた。病室で「おばあちゃん」と呼ぶと、かすかに「ハァ」と答える。あの力強い声がもどるのを、ハルさんの三味線も私たちもみな待っている。別れぎわハルさんのことばを私は呟いた。「瞽女と鶏は死ぬまで唄わねばなんね」


【下重暁子さんの本】

『鋼の女 最後の瞽女・小林ハル』
集英社文庫
集英社刊
好評発売中
定価:本体619円+税

プロフィール

しもじゅう・あきこ●作家、評論家。
早稲田大学卒。NHKアナウンサーとして活躍後、文筆活動に入る。著書に『純愛 エセルと陸奥廣吉』『物語の女たち』『不良老年のすすめ』等。



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