さる駅ビルにある大型書店の文芸書コーナーで声をかけられたことがある。 いや、正確に言うと、そこではまだ声をかけられていない。視線を感じたのだ。 スーツ姿、年の頃は30代後半から40代、○×精機、経理部管理課長といった風情の男だった。 顔バレはときおりあるが、さすがに売り場が売り場だけに気恥ずかしい。新刊自著の平積み前に佇む小説家の図、というのは、何やらあさましい。「おのれ売り場担当、棚ざしにでもしてみやがれ」とばかりに全身から怨念を吐き出して、作家本来のおぞましい姿を無意識のうちにさらしているものである。 素知らぬ顔で、ささっと後退する。旅行ガイドか、ペット本コーナーが無難だ。 果たして男は追ってきた。 ただの「おっ、いいもん見ちゃった」ではなく、ファンだ。 「あの……」 男は気弱そうな笑みを浮かべた。 篠田さんですよね、という言葉を予想し、私は思いきり、先生笑いを作る。 「ちょっと、お茶でも飲むお時間はありませんか」 冷水をぶっかけられた気分だった。 「失礼ですが、どなたさまで……」と笑みを浮かべながら、棘のある口調で尋ねる。 「いえ、電車の中でお見かけし、ご縁を感じたもので」 |
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(一部抜粋) |
【篠田節子さんの本】
単行本 集英社刊 8月25日発売 定価:1,575円(税込) |
プロフィール
1955年東京都生まれ。 90年「絹の変容」で第3回小説すばる新人賞を受賞。著書に『女たちのジハード』(直木賞)『ゴサインタン』(山本周五郎賞)『インコは戻ってきたか』『讃歌』等。 |
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