|
|
大学時代のこと。階段教室の前から5列目に座っていた私に、学ラン姿の応援団員がにじり寄ってきた。 「なあなあ、ノート貸してくれへん」試験前なので、講義ノートをコピーさせてほしいというのだ。丸坊主に眼鏡、裾の長い時代遅れの学ラン姿のその学生を知らなかったわけではない。ただ、言葉を交わしたことは一度もなく、向こうが目立つ格好をしているので顔は知っているという程度。ノートを貸し借りするような親しい間柄ではなかった。躊躇していると、今度は机の上に半身を乗り出し、「ねえ、貸してえなあ」と甘えた声で迫ってくる。友人ならまだしも、なんで知らん人間に自分のノートを貸さなあかんの。渋い顔をしていると、突然態度を豹変させ、腹の底からドスのきいた太い声を出した。 「おれの身分、わかっとるやろなあ」なっ、おれの身分って。おれの身分ってなんやねん。脅したって貸さへんで……。今にも鉄拳が飛んできそうな勢いで恐ろしかったが、私はそれでも気だけは強いので、頑として断った。彼は机を蹴り上げて去っていったが、その態度にますます腹が立った。応援団ってそんなえらいんか、まったく。これが、私の人生における応援団との出会い。 この1年、東京大学運動会応援部の学生たちを取材しながら頭の片すみにあったのが、10数年前のこの「おれの身分」という言葉だ。当時はまったく理解できなかったが、取材を終え、本書を書き上げた今は半分ぐらいわかったような気がしている。大学は異なるが、なぜ彼があんな言葉を吐いたのかということ。応援団がどういう場所かということ。実際、たいしたやつらであるのは確かだった。 運動部を応援するだけが彼らの務めではない。応援はあくまでも表舞台で、ふだんは身を粉にして部の仕事をし、大学の行事では学生代表としての職務をこなす。先輩に呼び出されれば何があろうと駆けていき、自分が先輩になれば後輩を責任もって導き、アルバイトをしてでも助けてやらねばならないときがある。厳しい練習、時代遅れの規則や礼儀。高校までは個性尊重、個性重視などといわれて育ってきた世代だが、中途半端な個性やプライドなど簡単に打ち砕かれてしまう。ぶよぶよした個性なんて、クソ食らえ、だと。 東大の場合は、そんな思いをして応援しても、勝利によって報われることがなかなかない。とくに、野球。私が彼らを取材するきっかけになったのも、昨年春の六大学野球対早稲田戦、東大が19対0で負けた試合だった。9回裏最後の攻撃になっても、「絶対逆転だー」と理不尽なことを叫んでいる彼らを見て驚いた。こんなやつら見たことない、いったい何者だ。どこかずれているぞ、という懐かしい感覚もあった。体面などかなぐり捨てて最後まで必死に応援する姿を見たとき、わけもなく感動した。昔は敬遠していた学ラン姿が清々しく感じられたのは、私の年齢も関係するのかもしれない。 これほど心動かされる学生たちに会ったのだから、とことん付き合ってみようじゃないか。Tシャツと短パン、靴下にスニーカーをはいて、長野県戸狩野沢温泉高原で行われている彼らの夏合宿を訪問した私。このオバハン、いったい何者と思われただろう。 主人公は、学ラン姿で応援歌に合わせて腕を振るリーダーという学生11人だ。それぞれ、高校時代は成績最優秀の生徒として過ごしてきた者たちである。それが応援部では、しょっちゅう先輩に怒鳴られ、ほとんど授業に出席できず、追試を受けてギリギリセーフといった綱渡りの学生生活を送っている。アニメおたくの高峰、韓国留学生の金、『魁!!男塾』を地でいく渡辺ら一年。幹部と新人の間にはさまれ中間管理職の憂いただよう2、3年。自己犠牲は美しいと語るぶっとびリーダー長、武蔵丸の異名を持つ主将。11人に伴走するうちに、彼らがなぜ応援部に入り、応援に何を求めたのか、そして、彼らにとって応援部にい続けることにどういう意味があるのかが、じんわりと見えてきた。 そして、平成14年秋。奇跡が起こる。 あれから、1年。当時の主将はじめ幹部部員たちは、就職、大学院、国家試験を目指すなど、それぞれの道へ進んでいった。あのとき、先輩にしごかれてヘロヘロになっていた下級生たちが、今年の新人相手に先輩らしく振る舞っているのを見ると、1年とはなんて早いのだろうと実感する。ましてや、彼ら自身にとっては、一瞬の幻かもしれない。そんな日々を描いたのが、この物語だ。本が書店に並ぶころ、彼らは秋の六大学野球の応援活動の真っ只中である。本当にたいしたやつらなので、是非また見に行きたいと思う。 今ならタイムマシンに乗って、あの同級生にあやまりたい。あんたの身分、わかっとらんかった、と。ノートももちろん貸してあげたいが、たぶん私のことなど覚えていないだろうな。あのころはお互い、まったく別世界に生きていると思っていたのだし。 |
【最相葉月さんの本】
単行本 集英社刊 9月5日発売 定価:本体1,500円+税 |
プロフィール
東京都生まれ。 著書に『絶対音感』『青いバラ』『なんといふ空』『あのころの未来 星新一の預言』等。雑誌新聞等で連載多数。 |
|