青春と読書
 A・J・クィネルが去る7月10日に肺癌のため亡くなった。享年65歳。
 彼はイギリスのベッドフォードシャーで生まれ、父親の仕事の関係からローデシア(現ジンバブエ)で育つが、イギリスの学校を出た後、貿易商として世界を駆け巡り、日本にもたびたび来ていた。第一作の『燃える男』を出すのは1980年のことだから、不惑の年に作家になったわけである。しかし、彼はのっけから不朽の名作を世に送り出すことになる。評価のひとつの証として、この作品にぞっこん惚れ込んだ映画監督がいた。ハリウッドのアクション映画監督で知られるトニー・スコットだ。彼は『燃える男』が出版された当初から映画化の夢を持ち、20年以上も経った2004年に、ついに映画化に漕ぎつけた。それが2005年の正月映画として日本でも公開された『マイ・ボディガード』(邦題)だ。アメリカ白人の元傭兵クリーシィを黒人俳優デンゼル・ワシントンが演じ、舞台も、現在なお誘拐が頻発するメキシコへと変更されてはいたが、底に流れる自己犠牲の美学と、BGMに使われたリンダ・ロンシュタットの「ブルー・バイユー」は不変だった。
 『マイ・ボディガード』の劇場公開に合わせて配給元の松竹が作ったパンフレットに、クィネルは小文を寄せた。その原稿が私の手元にメールで届いたのは、ちょうど1年前の8月21日のことだった。メールは奥さんのエルゼベートの出身地デンマークから送られてきた。そのころのクィネルはまだ元気なようすで、脚の持病も徐々によくなっているということが添え書きされていた。まだ癌に気づいていなかったのかも知れない。
 クィネルとのメールのやりとりは頻繁にあるわけでなく、その後互いになんの連絡もしなかったのだが、今年の2月8日に彼は突然新作の原稿を送ってきた。『死んだ神の司祭たち』と題する作品の最初の10章分だった。私はすぐにそれを読んだ。パソコンからプリントアウトして彼の長編の原稿を読むのは久しぶりだった。『トレイル・オブ・ティアズ』(2000)以来だ。もっとも、あの時はプリントアウトを読んだだけでなく、1999年の3月にわざわざマルタ共和国のゴゾ島に住むクィネルを訪ね、最初の原稿も読んだ。彼自身はパソコンやタイプライターには触らず、もっぱら気が向いた時に気が向いた場所で文字どおり手稿をしたためるだけだ。ゴゾには彼の協力者で病院職員のレーノがいて、彼の手稿をタイプで打つことになっていた。私がゴゾで読んだのも、レーノがパソコンに打ちこんでプリントアウトした原稿だった。私がゴゾを去った後、クィネルは原稿にかなり手を入れ、レーノ経由で新しい原稿がメールに添付されてきた。添付ファイルを開く時に、あれほどわくわくしたという経験は、私にはそれまで一度もなかった。『トレイル・オブ・ティアズ』だけでなく、短編集『地獄の静かな夜』の原稿も添付で送られてきた。その一編一編は隔月で「小説すばる」に発表され、本自体は彼が奥さんとともに来日した2001年4月に合わせて刊行された。ついでながら、彼と奥さんは私が勤める学校で創作教室の課外授業までやってくれた。
 さて、今年の2月8日に送られてきた新作原稿はすばらしい内容だった。『燃える男』に始まり、『メッカを撃て』(1981)、『スナップ・ショット』(1982)、『血の絆』(1984)、『サン・カルロの対決』(1986)、『ヴァチカンからの暗殺者』(1987)と続いた初期作品群の切れ味が鮮やかに蘇っていた。私はその旨をメールに書いて彼に送った。彼は私のコメントにことのほか喜び、いまデンマークにいるが、近々ゴゾへ移って、3章か4章ずつ送ることにするとも書いてきた。私は待った。しかし、なにもこなかった。
 その後私の耳に入ってきたのは、彼が死んだという噂だった。7月11日のことだ。私は急いでエルゼベートに確認のメールを入れた。その返事はつぎのようなものだった。
 「悲しいことに、フィリップ(クィネルの本名)が亡くなったのはほんとうのことです。ここゴゾの私たちの家で日曜の午後遅く、亡くなりました。この数ヶ月、肺癌が悪化し、彼はとても悪い状態でした。それでも、彼はとても勇敢でした。ひとことも愚痴をこぼさなかったのです。いつもほかのひとたちのことを思いやっていました。それが彼のいつもの姿でした」
 A・J・クィネルは自己犠牲の美学を貫いて死んだのだ。私はこれを読んでそう思った。その美学は『燃える男』に初めて登場し、その後『パーフェクト・キル』(1992)、『ブルー・リング』(1993)、『ブラック・ホーン』(1994)、『地獄からのメッセージ』(1996)と続いた作品で一貫して主人公となるクリーシィに結晶していた。クリーシィはその美学においてクィネルそのひとだったわけだ。彼の他人への思いやりの深さは、私がゴゾに滞在した5日間にも感じたことだし、奥さんとともに彼が日本へ来た時にも感じたことだったが、なによりも彼のすべての作品を訳しながら感じていたことだった。
 彼の訃報を確認し、私はすぐにも弔問に訪れたい気持ちに駆られたが、なにせゴゾは遠い。7月19日午後5時に地元の教会で追悼礼拝が催されると分かったが、とても行けそうにない。そこで私はつぎのような追悼の言葉を英語で書き、エルゼベートに代読を頼んだ。

   フィリップ、
 あなたを追悼する礼拝の際に、ここ日本からあなたに話しかけることをお許しください。地理的には、あなたと私の間には非常に遠い距離がありますが、私たちは作家と訳者の間柄です。これはつまり、私たちは互いに長い間、魂と魂で会話を続けてきたということです。ですから私は、あなたが私自身の半分に相当するように感じるのです。『燃える男』に始まり、『トレイル・オブ・ティアズ』に終わる長編と、短編集『地獄の静かな夜』を含む13の作品すべてを私は日本語に訳しました。あなたの3番目の作品『スナップ・ショット』があなたの作品としては日本で初めてベストセラーリストに登場した日のことを、私は昨日のことのように覚えていますが、あれからもう20年以上の歳月が経過しました。それ以来、あなたの作品はどれもがベストセラーの仲間入りを果たしました。ヨーロッパにおいてのみならず、日本においても、あなたがこのように大きな成功を収めたのは、単にあなたの作家的技量のみによるものではありません。人間の愛と強靭さへのあなた自身の信念の賜物でもあるのです。たくさんの日本人読者があなたの作品と、そこに窺われるあなた自身の考え方に感銘を覚えました。いまやたくさんの日本人ファンがグレンイーグルズであなたに会おうと、遠い地中海のゴゾへ出かけていると聞きます。もうグレンイーグルズであなたに会えないと分かると、ファンたちはきっとがっかりすることでしょう。しかし、私はたいていのファンよりも深い悲しみを感じています。私は自分自身の半分を失ったのですから。
 フィリップ、どうか安らかにお眠りください。そしてまたいつの日かあの世のどこかで再会できる日をお待ちください。

 この拙い追悼文をゴゾで代読してくれたのは、エルゼベートではなく、クィネルの幼友だちにしてリテラリーエージェントのクリストファー・リトルだった。「参列者が感動した」というメールが彼から来た。
 マルタはカトリックの国で遺体を荼毘にふせないということから、クィネルの遺体はイギリスへ運ばれ、そこで荼毘にふされた後に、ゴゾで散骨されることになった。この手筈が整った段階でロンドン同時多発テロが発生し、遺体の搬送に支障が生じることになったが、最終的に8月18日に火葬となった。その儀式に私も参列し、故人に最後の別れを告げた。ロンドンのウィンブルドンに近いパトニー・ヴェイル火葬場でのこの儀式には、エルゼベートやクリストファー・リトルのほかに、故人とごく親しかった20人ほどのひとたちが集まり、その後、近くのホテルでビールを飲み、軽食をとりながら、故人の思い出を語り合った。


【大熊榮さんの本】

A・J・クィネル 著/大熊 榮 訳
『トレイル・オブ・ティアズ』
単行本
集英社刊
好評発売中
定価:1,995円(税込)



プロフィール

おおくま・さかえ●筑波大学教授。
1944年埼玉県生まれ。
A・J・クィネルの全作品を訳しているほか、ジェイムズ・ヘリオット『犬物語』『猫物語』など、著訳書多数。



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