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作家や著名人の直筆原稿を見るというのは、何で面白いんだろうか? 青木正美収集・解説『近代作家自筆原稿集』・『大衆文学自筆原稿集』(東京堂出版)、伊藤整他編『文士の筆跡』(二玄社 全5巻)や、貴重な直筆原稿の見られる資料を大量に前にして、あれこれ思い巡らしながらめくっていると、じつに楽しい。 『文士の筆跡』は、黙阿弥の戯曲に始まる明治期からの原稿が、時代順に並んでいる。眺めていくとそこに日本近代の直筆原稿の歴史が繰り広げられる。僕はもともと文学青年でもなく、ここに登場する多くの作家は読んだこともないのだが、それでも名の知れた人たちの書字を眺めていると、興味がつきない。 明治期の文人は当たり前だが達筆が多く、樋口一葉などは見事だ。当然、書をならいとする時代の達筆であるから、本来は連綿(文字と文字が草書体で連なる)で書かれるのだろう。が、すでに原稿用紙の升目があるので、わざわざ一字一字区分けして書いている。書としての字がうまい人にとって、原稿用紙の升目というのは、じつは不自由なものだったに違いないとあらためて思う。 そうかと思えば、内村鑑三の字は親しみを感じるほどにヘタで、金釘(かなくぎ)流というのか、当時でもこんな字の人はいたんだなぁと思い、意味もなくホッとする。あるいは政治系の著名人の字は、見るからに権力志向を感じる肩肘はった感じの字だったり、うまいヘタとはまた別の面白さがある。 そうした流れの中で、次第に原稿用紙用の書字ができてゆく。日本の出版が大衆化してゆく大正〜昭和期になると、僕らにも違和感のない、升目一杯にわかりやすく書かれた文字が出現する。菊池寛などがそうだが、書字のうまさとは別のわかりやすさである。表に出ない印刷のための元原稿という機能として特化したのだろうな、という印象だ。 面白いのは、さらに時代が下ると、石原慎太郎や中上健次にいたる悪筆の系譜が出てくる。これはもう「読めねーよ」と投げたくなるような字だが、造形的に作家の「らしさ」を感じさせる意味では、ひじょうに面白い。 何でまた僕がそんな本を大量に見たかといえば、祖父漱石の『坊っちゃん』直筆原稿を写真版で復刻する新書に解説を書けといわれたからだ。僕のようないい加減な者の解説だけではなく、岩波で全集の編集に携わった秋山豊氏のちゃんとした解説もあるので、僕のほうはけっこう無責任に面白ければいいかと思い、企画に惹かれて引き受けた。これまで、かなり高い本での直筆復刻はあったようだが、新書のような手に入りやすい形での出版は初めてだという。 僕は、一応専門領域のマンガで描線論をやり、また石川九楊氏に強引に引き込まれて『書の宇宙』(二玄社 全24巻)で書についての連載分析エッセイもやったことがある。個人的にも、最近遊びで書を始めたので、漱石の直筆なら眺めているうちに何か面白いことがいえそうな気がした。 少し前、書の面白さも、何がどういいのかもわからない書音痴だった頃なら、間違いなく断っただろう。が、ホンの少しだが筆を持ち、あれこれ臨書などもしているうちに興味が湧き、古今の書を見てもアアだコウだと言葉が出るようになった。漱石の書も、一体うまいのかどうかも判然としなかったものが、何となくどんな書であるのか感じ取れる気になってきたところであった。 それが慢心であることがわかったのは、いざ『坊っちゃん』直筆を前にしてからだった。漱石の直筆原稿は、じつに律儀に読みやすく書かれている……らしい。「らしい」のは何となくわかるのだが(じっさい、書に明るい人にはまったくストレスなく読める字だという)、いかんせん無教養な戦後大衆の孫には、明治の大知識人の「わかりやすい字」が判読できにくいのである。読むのに苦労する。 その「読みにくさ」にはしかし、ただ昔の書字だからという以上のものがあるような気がした。漱石の字は、けして「面白い」造形の字ではなかったのだ。書として作品化されたものは、まだ僕にも「良さ」のようなものが感じられるのだが、直筆原稿には同じものを感じられないのである。これには参った。 そういう状態から何とか解説をひねり出さねばならなくなった僕は、それならば書字と原稿の歴史から比較をしていこうと思い立った。かくて直筆原稿集をいくつも眺める仕儀に相成ったわけなのだ。漱石という、江戸時代最後の年に生まれ、明治とともに年齢を重ねた男が、明治も終わろうとする四十歳近い時期に書いた原稿。それが歴史的に見てどんなものだったのか……。 あとは新書版『直筆で読む「坊っちやん」』をじっさいに見てもらい、解説を読んでみていただきたい。まぁ、解説のデキにはあまり期待しないでほしいが。 (なつめ・ふさのすけ/漫画評論家、漫画家) |
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