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南海ホークスのエースとして巨人相手に日本シリーズで4連投4連勝を成し遂げた杉浦忠。彼と長嶋茂雄との立教大学時代の友情を描いた小説『天使の相棒 杉浦忠と長嶋茂雄』(本誌連載)がこのたび単行本化される。刊行にあたって、全日本代表監督の長嶋氏に杉浦さんの思い出を語っていただいた。 ……初対面の頃………………… ねじめ この『天使の相棒 杉浦忠と長嶋茂雄』を書いたのは、杉浦さんが豊田市栄誉賞を受けられたときに、その記念会でぼくが司会をやったことがきっかけになっているんです。杉浦さんには球場では何度かお目にかかったことはあったんですが、ちゃんとお話しするのはそのときがはじめてで、そのお人柄に驚きました。衒(てら)いがないというか、非常にすがすがしい方で、長嶋さんとの思い出話も面白おかしく話すのではなく、ご自分の思い出として懐かしそうにお話しになるんですよ。 ああ、すばらしい方と知り合いになれたなあ、司会をさせていただいてよかったなあと感動しまして。そのときですね、若かりし頃の杉浦さんと長嶋さんの話をぜひ小説に書いてみたいと思ったのは。 長嶋 今はパフォーマンス全盛で、ないことでもあるように話す、そういう時代になっているけれど、彼の場合は地そのままで、パフォーマンスもなければ、もちろん人様にどうこうというのもない。野球人であれだけの落ち着き、品格というのは珍しいタイプですよ。 これは前にもねじめさんに申し上げたけど、杉浦はもっと知られていいプロ野球選手だと思いますね。そういう意味で、ねじめさんが杉浦のことを書くとお聞きしたときはうれしかったです。 ねじめ 長嶋さんと杉浦さんがはじめて会われたのは……。 長嶋 伊東で行われた立教大学のセレクションですね。 ねじめ そのときの杉浦さんの記憶はありますか。 長嶋 あります。あのときはまだオーバーハンドで、上から投げていましたね。それで、とにかく球が速かったという点で印象が非常に強かったです。スピンの効いた球がパーンとね。 ねじめ セレクションのとき、杉浦さんと長嶋さんが紅白戦で戦いますね。 長嶋 あの試合は完全にこちらの負けだったんですよ。勝負はもうワンサイドで。あまりにも杉浦の球が速すぎましたからね。あの球の速さでは打てませんよ。 ねじめ それを長嶋さんが打って、杉浦さんは完封を逃しちゃった。たしか3塁打ですよね。 長嶋 ええ、そうなんです。 ねじめ それがきっかけで杉浦さんの存在を意識し始めた? 長嶋 存在どころか、はじめはまったく無名の選手でしたから知らなかった。で、なぜ彼の存在を身近に感じたのかというと、やはり今言ったように球が速かったからです。うわあ、このピッチャーどこの高校だろうと聞いたら、甲子園にも出場していない愛知の挙母高校という田舎の学校から来たということで、何か境遇も身近に感じたんですよ。僕も甲子園に出場していないし、房総半島の片田舎でしょう。環境が非常に似てたんですよ。だからひとしお親近感も湧いたし、今で言う波長が合ったんでしょうね。それで最初から印象が非常に強かったんです。 ただ、あのセレクションの時分でも、サラリーマンというか勤め人の雰囲気で、これで本当に野球をやるのかという表情をしていてね(笑)。よくいえば非常にジェントルマンで、パフォーマンスとかいたずらもしない。 ねじめ 杉浦さんはあまり目立つタイプではなかったようですね。 長嶋 目立ちたがり屋じゃないんですよ。どちらかというと、一歩も二歩も退くタイプでね。評価するにしても、己に対してよりも人に多くの評価をするという、そういう珍しいタイプでしたからね。野球人というのは割合そそっかしいし、おっちょこちょいでお調子者が多いでしょう。彼は珍しくそういうタイプとは逆を行ってましたから。だから印象が強かったですよ。 ねじめ 杉浦さんは本当は立教に行きたくなかったらしいんですね。早稲田に行って新聞記者になりたかった。 長嶋 ああ、わかる気がしますね。静かなんで部屋をのぞくと本を読んでいた、なんてことがよくありましたからね。文学青年的なね、何かそういう雰囲気がありましたよ。 ねじめ ですから、本当は早稲田を受験したかったらしいんです。ところが立教はセレクションのあと合宿に入って外へ出してくれないので、早稲田を受けられなかったらしいですね。 長嶋 杉浦は推薦のナンバーツーだったかな。部で30名くらいの推薦枠があったんですよ。で、3番目がぼくだったんです。 ねじめ 一番は本屋敷さんですか? 長嶋 そう。つまり本屋敷、杉浦、長嶋茂雄が推薦の上位なんですよ。だからもう立教に入らざるを得ない(笑)。それくらい彼は球が速かったんですよ。本当に速かった。 ねじめ 杉浦さんは足も速かったそうですね。 長嶋 そう、足も速かった。足腰が非常に強靭で、そしてその強靭さの上に柔軟さも併せ持ってたんですよね。非常にやわらかみがあった。だから球が速かったし、足もね。 3年生のときだったかな、埼玉の志木にある総合運動場で運動会をやったんです。それで陸上競技部と野球部でリレー競走をしようじゃないかということになって、陸上競技部をやっつけたんですよ。そのときのメンバーの一人に杉浦が入ってました。で、ぼくも入ってた。ぼくも足が速かったですからね、あとは本屋敷と日石(日本石油)に行った浅井だったかな。そのメンバーで見事やっつけた。野球部が陸上部をやっつけたというので校内でずいぶん話題になりましたよ。 ねじめ でも杉浦さんて、あまり速く見えないじゃないですか。あの走り方もそんなに。 長嶋 見えないんです。だけどバネがあってストライドも大きいんですよ。あれだけの足腰の強さがあるから球が速く投げられる。 (〜中略〜) ……完全燃焼の野球人生………………… ねじめ 長嶋さんと杉浦さんというと、思い出すのは、あの有名な昭和34年の巨人対南海の日本シリーズですよね。 長嶋 杉浦が一人で4勝。4連投。 ねじめ あのときの杉浦さんは連投で疲労困憊していて、血マメができて大変な思いをしながらの投球だったわけですが、長嶋さんとしては複雑な思いだったんじゃないですか。親友が敵チームですごいピッチングをしている。しかし前年巨人は西鉄にコテンパンにやられているわけで、負けるわけにはいかないという。 長嶋 複雑というよりは、やっぱりプロの世界なんだなという思いですね。ある程度は仕方がないなという面もありましたけどね。チームとしては負けた口惜しさがあるわけですけれども、ライバルが素晴らしい力を発揮して、しかも正々堂々と勝負してきた場合は、しょうがないなと諦めざるを得ませんね。顔には口惜しさがあるけど、心の中では「よくやったなあ、お前さすがだなあ」という気持ちですね。 ねじめ 一方では悔しいけど、一方でうれしい……。 長嶋 そうですね、そういう感じですね。 ねじめ たしか前年、西鉄に敗れたときには、それでもまだ最後に長嶋さんがランニングホームランを打ったりして、抵抗しているなという感じがあったんですけど、あのときの杉浦さんには……。 長嶋 抵抗すらできなかった。3試合先発、あとの1試合はリリーフで勝ちゲーム。もうぐうの音も出なかった。プロであっても、あそこまでやられたら仕方ないという諦めの境地ですよね。あれが全盛時代でしたね、杉浦忠の。 ねじめ プロ入り3年ちょっとで100勝してしまうんですよね。それで4年目に右腕の動脈閉塞に襲われる。あんなに投げたら故障も出ますよね。 長嶋 手術をしたんだけど、やはり1、2年はダメでしたね。 ねじめ 7年目に20勝あげるんですけど、その後また動脈閉塞が再発する。引退は昭和45年、13年間の現役生活でした。杉浦さんの腕の調子が悪くなったときに、そのことで杉浦さんとお話しされたことはありますか。 長嶋 あります。もう野球生命は短いんだとか、やれることはやったからもういつ終わってもいいとか、そういう覚悟というか満足がありましたね。 ねじめ 杉浦さんの著書『僕の愛した野球』の中に、杉浦忠と言えば日本シリーズ4連投4連勝と言われて「俺はそれだけではないんや」と内心反撥した時期もあった、でも冷静に考えればあの戦いの中に自分の野球人生のすべてが凝縮されていたのかもしれない、といったくだりがあるんです。 杉浦さんは一見ジェントルマン風のおだやかな人に見えるけど、いろいろな方にお話を聞いてみると、割と捨て身のところもあるんですよね。 長嶋 サムライなんですよ。こと野球においては、逆境というか、追い込まれたとか、そういうイメージはないですもの。いつも勝負は先手に入って、どうだどうだどうだって見下ろしている、そういう野球人生でしょう、杉浦は。 ねじめ ぼく、杉浦さんの葬儀のときの長嶋さんのコメントがとても印象に残っているんですよ。「早かった」とおっしゃってましたよね。それを聞きながら、スポーツの世界で輝かしい成績を残した人というのは、たとえ亡くなったとしても、その輝かしい成績がある限り、どこかで十分に生ききったという思いがある。早かったけれどもやり残したことはない、そんな思いがしました。 長嶋 たとえば、ぼくら巨人の先輩であの伝説の沢村投手が、アメリカのナショナル・チームを相手にして、ベーブ・ルース以下並みいるバッターをバッタバッタと三振に取った。で、戦争に行って、戦争の犠牲者になった。早いなあ、もうちょっと生きてて欲しかったという感じがあるんですよ。しかし、アメリカをなぎ倒すという快挙をやってのけたんだから、あれはあれでいいのかなあという感じも、たしかにあります。 ねじめ ぼくは長嶋さんのコメントを聞いているとき、それをすごく感じました。杉浦は、こいつはちゃんとやったんだ。男としてやったんだと。 長嶋 完全燃焼ですよね。 ねじめ 年齢の問題じゃないというのが、すごく伝わってきました。 長嶋 彼の場合、いわゆる勝負の質そのものがまさにドラマチックだったでしょう。短期決戦で4連勝して「涙の御堂筋パレード」ですからね。 ねじめ 杉浦さんは冗談で、もうちょっと勝ち星を小分けにして、あと10年ぐらいでやってればよかったかな、なんておっしゃってましたけど。 長嶋 そういう計算ずくで野球人生張っているわけじゃないんだから。毎年毎年勝負張って、まさにタコみたいに自分の手足を食べながら生き延びているのがあの頃の野球人生でしょ。省エネとかいって力を出し惜しみしながら、20勝するところを15勝で止めて5勝は来年にとっておくという、そういう計算ずくの時代ではありませんでしたよ。 ねじめ 杉浦さんはまさしくその典型ですよね。 |
【ねじめ正一さん】
1948年東京都生まれ。 '81年に詩集『ふ』でH氏賞受賞。'89年に『高円寺純情商店街』で直木賞受賞。著書に『眼鏡屋直次郎』『万引き変愛記』等。長嶋茂雄氏に関する本も数多く執筆。 |
【長嶋茂雄さん】
1936年千葉県佐倉市生まれ。 杉浦、本屋敷とともに立教大学黄金期を築き、その後巨人に入団。華のあるプレーでファンを魅了し、「ミスタープロ野球」と呼ばれる。 |
【ねじめ正一さんの本】
単行本 発行=ホーム社 発売=集英社 10月24日発売 定価:本体1,600円+税 |
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