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「みうらじゅん」と「みうらしをん」。名前が0.5文字ぐらいしか違わない。「それがどうした!」と、いずこからともなく怒声が聞こえてくる気がするが、これは私のささやかな自慢である。私はみうらじゅん氏と、名前が似ているのだ。げっへっへ。 「おまえの一人勝手な自慢なんか聞きたくないんだよ。ていうか、それって自慢か? 単なる偶然だろ」と、いずこからともなく罵声が聞こえてくる気がするので、自慢はこれぐらいにして、さっそく本の紹介に移りたいと思う。みうらじゅんの『とんまつりJAPAN』が、ついに文庫化されたのだ! この本の内容は、みうらじゅんが全国のヘンテコリンな祭りを見物し、レポートする、というもの。読んだら笑い死にしそうになること必至だ。 巨大なカエルの着ぐるみが御輿に乗って登場する「蛙飛行事」。荒縄でぐるぐる巻きにされた男たちが、道路に転がされてはホラ貝を吹き鳴らす「水止舞い」(どうでもいいが、ちっとも「舞い」じゃない)。お多福と天狗が衆人の面前で突如まぐわいあう「おんだ祭り」。 もうホントに意味不明。臨界点らくらく突破って感じの、「奇祭」としか言いようのない祭りの数々が、たくさん紹介されているのだ。「トンマなまつり」だから、「とんまつり」。サイコー! みうらじゅんの的確なツッコミとイラストが、祭りの楽しさとトンチンカンぶりを倍増させる。 「大のおとなが、真剣にやるようなもんか、これ?」と、めまいがするような祭りばかりなのだが、その土地のひとは、もちろんすごく真剣なのだ。みうらじゅんは適度な距離感を保ちつつ、笑ったり脱力したりしながら祭りを楽しむ。 ひとは、自分の理解を超えるものと直面するとたいがいは、「どうしてこういうものが生まれたのだろう」と、背後関係を類推したり、由来を知りたくなったりするだろう。しかしみうらじゅんは、祭りの由来や由縁なんて、ほとんどまったく気にしない。 たしかにヘンテコリンな祭りだが、それは現にこうして「ある」のだから、他のことはどうでもいいではないか。そういう潔い態度で、眼前に繰り広げられる妙ちくりんな世界をガッシリと受け止めていく。読者もいつのまにか、「そうだよね、細かいことは気にせずに楽しめばいいよね」と気楽な気分で、すべてを満喫してしまう。 冷静に考えると、「ちょっとは細かいことを気にしたほうがいいよ!」というぐらい、ヘンな祭りばかりなんだが。すごくファンキーな化粧をした老人が、見物客にひたすら笑うように強要する祭りとか。尋常じゃない。 この本を読めば祭りのエキスパートになれるとか、失われゆく日本の伝統とやらに詳しくなれるとか、そういうことはまったくない。じゃあなんで読むのかというと、ただただ面白いからだ。わけのわからないパワーに満ちているからだ。知識とか善行とかとはまったく無縁。私には、それこそがこの本のすばらしいところなんじゃないかと思える。 そりゃあ、ガリガリ勉強していい成績を取ったほうが、お小遣いはアップする。家の庭で種から育てた大根を売るよりは、車を作ってバンバン売ったほうがもうかる。だけど、勉強したり車を売ったりすれば生活が楽しくなるかといったら、当然のことながら、そうではないのだ。私たちは、なにかを得るために本を読むわけではないし、すべてにきちんと意味づけして行動するわけでもない。 『とんまつりJAPAN』に出てくるのは、徹底した無意味と、非生産である。意味づけや効率は、ここではまったく価値を持たない。あるのはただ、その土地で暮らしてきたひとたちが、「昔からやってることだから」という理由で真面目に行う、おかしさと熱狂に満ちた「祭り」という行為だけだ。 私はそれこそが、祭りの本質であり、生活を楽しむことの本質だと思う。 すべては混沌として馬鹿らしく、「意味」なんてアッというまに変質し、消失してしまう。残るのは人々の、「たとえ無意味だとしても、親しいひとたちと今年も楽しく暮らしたい」という願いと、「自分が死んでいなくなったあとも、自分がまだ生まれていなかったときと同じように、この祭りはずっと続いていく」という確信だけだ。 暮らしを彩るトンマなまつり。たとえ成績が悪くても、車が売れなくても、人間は楽しく生きていくことができる。ちょっとした着眼点さえあれば。 その着眼点とはつまり、自分も含めた人間という生き物を、「好きだなあ」と思うことだ。アホだなあ、だけど好きだ、と。 『とんまつりJAPAN』には、みうらじゅんの、そして、祭りにかかわるひとたちの、そういう思いがあふれている。 |
【みうらじゅんさんの本】
日本全国とんまな祭りガイド』 集英社文庫 集英社刊 7月21日発売 定価:580円(税込) |
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