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雑誌の表紙は面白い。 雑誌の表紙は雑誌の顔である。顔というのは人間がそこからさまざまな情報を読みとるものなのだった。 っていうか、人は顔を見れば「顔色をうかがって」しまうようにできているのである。それで、雑誌にはそのものズバリ、人間の顔がつかわれることが多い。 雑誌というのは、時代を映すものである。時代を映していない雑誌は、売れなくなり、だからいずれ、なくなってしまう雑誌である。 ある一定量のコレクションがあるとする。たとえばマッチのラベル、たとえばトイレットペーパーの包装紙、たとえば洋服のタッグ、果物のラベル、なんでもいい。それらが一定量集まったものを見るのはとても面白い。 一枚見たのとは違う面白さがあるのだ。そこに色んなことを気づかせてくれるものがある。それが沢山見ていくことで「見えてくる」面白さである。 『「明星」50年601枚の表紙』は、そんなわけで私が思うに企画された途端に「成功」している新書である。面白くなるということに関して確実な企画である。 まえがきに、月刊「明星」の1971年〜1981年の表紙写真を撮影した篠山紀信を配したのは、この企画を考えた人物ならば当然の人選であるけれども、これ以上の人選は考えられない。 篠山氏は、短い「まえがき」のスペースの中で、自らの「明星」の表紙撮影の技法から、黄金時代を築いた考え方、スターというもの、スターを撮るということ、「明星」という雑誌、写真というもの、表紙のデザインやレイアウトのフォーマットまで、あるいは時代性、明星の表紙に表れている時代、といったようなことをズバリズバリと、短いコメントでみごとに言い表している。 本文は、創刊から現在までの表紙を、すべてカラーで一枚残さず並べる(ここが企画者のもっともよくワカッテルところだと私は思う、全部! 同じように! というところに意味がある)いわばそれだけの構成に、「解題」と称して文章が加わるのだが、これを橋本治氏一人に依頼したところが非凡である。 こうした企画では、たいがい何人かの人気のある文化人に、思い出話や昔話をからませたエッセイを依頼して、そこらじゅうにチリバメたりするものだ。 そうせずに、橋本治氏一本にしぼると、どういうことになるか。これは本文を読んでみれば明らかである。 堂々たる文化論、日本論になっていて、しかもそれは「明星」やその「表紙」と、ぴったりとついていて、近頃ありがちな、卑俗なものを、高尚で難解な理屈で論じてあげました式の作文とは大違いである。 橋本治の文章は、だから普通でいうならば「解題」というより「独立」した論考、なのだが、しかしこれが表紙のオールカラー図版と対になっているところ、それ抜きには書かれていないところが素晴らしい。 文章を読むことで「わかる」こと、あるいは「キッカケを与えられ」て考えることと、絵や写真を見、見較べ、見続けることで、わかったり、考えるキッカケを与えられることは違っている。 それを橋本治ほどにわかっていて、しかも文章にそれを表せる、そのうえ実際に「明星」をリアルタイムで愛読していた書き手、といったら、もうこの人選も橋本治以外にはありえないのであった。 つまり、私は、この企画はパーフェクトだと思う。カンペキに面白いと思う。が、パーフェクトに売れるかどうか、それはわからない。 私は、こうしたビジュアルな本、ビジュアルなイメージによって、何かを考えさせてくれる(つまり面白がらせてくれる)本がもっと出てきてほしいし、そうした本の面白さを世間にわかってほしい。 だから頼まれなくても、私はこの本が売れてほしいし、世間の耳目が集まってほしいと思っているのだった。 ビジュアルなものについて語る文章に、その図版が載せられていない、あるいはひどくソマツな形で(つまり情報量がいちじるしく減った状態で)しか載せられていないと、私はその文をあまり信用しない。 この本で、たとえば橋本氏が、篠山紀信の写真を評して「スターの中に眠っている『スターであることの本質』をそのまま表に引っ張り出している」と書き、スターたちは、まるで輝く甘い果物のような美しさだ、と書いているのを読んで、即座に篠山氏の写真を見る、そうして、大いに納得をする。 「明星」の表紙が「変わる」変わり目について書かれた文を読み、そして当該の表紙の図版を見る、この往復がとっても面白い。そうしてそこで自分なりの思いつきや、発見をする。こんな読書は、そうそう望めないものだ。 (みなみ・しんぼう/イラストレーター) |
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【橋本 治さんの本】
『「明星」50年 601枚の表紙』 集英社新書 集英社刊 好評発売中 定価:1,000円+税 ![]() |
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