青春と読書
 今朝は8時20分に家を出まして、大島と一緒に病院に行ってきました。リハビリです。10メートル向こうまで歩いて、休まず戻ってこれましたの。よそ様から見れば、往復したといってもたかだか20メートルでしょう。それもスタスタ歩けるわけではなくて、杖をついて支えられて。でも、私にとってはうれしいことです。何しろ大島は、歩くのは無理といわれていたんですから。
 人間、生きていく上で何が大切かといったら、「希望がある」ということだと思うんですね。私たち、それはそれはたいへんなときを過ごしてきましたから、今こうして、リハビリできることが喜びなんです。秋が深まるころにはお散歩にも行けるかもしれない、いえ、車椅子のままでも、もっと外に出かけられるかもしれない。そういう希望を持てることがすばらしいと思えるんですね。

 夫で映画監督の大島渚さんが脳出血で倒れたのは1996年2月。映画『御法度』の製作発表を行ったばかりだった。適切な治療と周囲の献身的な看護のもと、回復を遂げた大島監督は映画を完成させ、2000年カンヌ映画祭への出品を果たす。しかしその間、大島監督の身体には大きな負担がかかっていた。

 最初に倒れたときは、歩くこともできず言葉すらも失った大島でしたが、なんとしても映画を完成させたいという一念から懸命にリハビリに励みました。やがて奇蹟ともいえる回復で、『御法度』を撮ることができ、カンヌ映画祭へ出品。受賞こそならなかったものの翌年には紫綬褒章を、ほかにもさまざまな賞をいただきました。しかし、これからやっと平穏な後半生を過ごせる、私も仕事に復帰しようというとき、そこからまた闘病生活が始まったのです。肺炎、次は十二指腸潰瘍穿孔による腹膜炎と入院も数度に及びました。結局この10年近く、山を越して一息つけるかと思ったらまた山があった、という日々です。私自身も最初は入退院の繰り返しで、絶望のどん底におりました。

 大島監督が最初に倒れてからの数年間、小山さんはうつ病で苦しんでいた。いわゆる「介護うつ」である。今回、小山さんは『パパはマイナス50点』にその間の経緯を詳しく書いた。

 うつ病のことは以前はオープンにしていませんでした。女優の仕事にも、大島の仕事にも悪影響があるのではと思いましたから。でもね、時間がたってお話しもできるようになって、インタビューや講演などで少し触れると、反響がとても大きいの。「小山さんもそうだったんですか」と。どこで調べたのか自宅にまでお手紙、お電話をいただいて、相談にのってほしいという方もおられます。
 私など、相談にのれるほどの力はないんです。けれどもうつの方の気持ちはよくわかります。そして今があるのは、うつを乗り越えられたからこそ。沈んだ気分のままで入退院を繰り返しているようでは、今の幸せは感じられなかったでしょう。ではどうやって乗り越えられたのかと振り返ってみると、もちろん専門の先生のお力が大きかったのですけれども、本を読んだり、いろいろな情報を得たり、それらにずいぶん助けられたんですね。ですから私のことも、全部お伝えしてもいいかな、と思いまして。

 うつからの「リハビリ」の過程で小山さんは、水泳教室に通い始め、ヨガスクールにチャレンジし、ガーデニングに目覚め、一筆画のお稽古を再開したという。あるいはまた、介護生活の中でご近所との交流が生まれ、どんなに助けられたことかと振り返る。今の充実した暮らしぶりを語る小山さんの明るい表情からは、「介護うつ」の状態は想像もつかない。

 私はもともと楽天的で細かいことは気にしないタイプ。まじめではあるけれど几帳面ではないんです。そんな私がうつ病になるなんて。息子たちが「驚いた」といいますけれど、いちばん驚いていたのはほかでもない私なんです。
 当時、映画の製作発表をした後で、責任やプレッシャーはとても大きなものでした。私自身、女優という仕事ができない状態になったこともうつが原因です。しかし何より、パートナーが倒れるということは、だれもが心を病みかねないほどの事態なんですね。
 みなさんにうかがうと、まだまだ現役という方が突然倒れた場合、パートナーの方はそれだけにショックも大きく、心配事も多くなり、うつになってしまうケースが多いようです。お年を召された方であれば少しは心の準備もあるでしょうけれども、そうではないだけに辛い。私の場合も思いは同じです。
 これから定年を迎えるというみなさんは、介護やそこでのうつとだれもが無関係ではありませんよね。実際そうなったらパニックになることもあるでしょう。私たちの体験が何かお役に立てるかなと思って、『パパはマイナス50点』には大島の病状や介護の様子も詳しく書きました。若い方にはまだ実感が湧かないでしょうが、この本で親の世代のことを身近に感じてくださればいいなとも思うんですよ。
 うちもね、「子どもは役には立たないわ」なんて思っていたけれど、大島も私も倒れてしまったときは息子二人が役割分担をしてちゃんと世話してくれて。お嫁さんたちにも一生の借りをつくっちゃったなって思ってます(笑)。

 今、小山さんは大島監督の介護を生活の中心にすえながら、ご自身の世界を広げ、生き生きとした日々を送っている。今年は瀬戸内寂聴訳『源氏物語』の朗読で久々にステージに立ったが、そのために始めた発声練習を現在も続け、今後はシャンソンを歌いたいと考えている。自らの介護体験、介護の知恵を伝える講演活動にも力を入れているし、執筆活動にも積極的だ。

 文章を書くって本当にたいへん。ようやく本の方はまとまりましたが、今も神奈川新聞に月一回エッセイを連載しているんです。そのために四苦八苦。本も読まなければなりませんしね。
 大島はすごく本を読む人だったんです。新刊の本を枕元において、酔っ払って帰ってきても毎晩本を読む。もともと頭脳明晰で、しかも知識を得ることに貪欲で努力を惜しみませんでしたから、何でもよく知っていて。それが演出の仕事に生かされていましたし、文章もスピーチも、とっても上手な人なんですよ。とても私なんか追いつけません。「いつまでたっても、パパにはかなわないわ」って、いつも息子たちに話しています。
 今、身体の機能はおちてしまったけれど、やっぱりパパはすばらしい。例えばね、大島の手の指はとてもきれいなんですね。私の手は家事ですっかり荒れてしまっているから「パパの手と換えてもらいたいわ。なんてきれいなんでしょう」って、話しかける。「この手がほしいわ」っていうと、大島ったら満足そうに笑うんですよ。そんな毎晩のお休み前の、パパの手をなでたり、髪を触ったりしながらのひとときが、私にとっても大島にとってもいちばん幸せな時間です。
 私たち、いつも忙しくてふたりで旅行をしたこともないような暮らしぶりでした。大島が倒れていなかったらふたりとももっと活躍していたでしょう。けれど、今のこんなにいい時間が過ごせるならば、この10年は決してマイナスばかりではなかったように思うのです。
 倒れても執念でよみがえりながら、また生死の境をさまよう重篤な状況を経て、次第に身体が動かなくなり、その現実を受け入れていく辛い日々を送ってきた大島……。その10年を思うと、だからこそパパは私にとっては誇らしくすばらしい。私もまた、自分の生き方を問う時間を経て、今があります。
 ですから、毎日の大島の世話をいやだと思ったことは一度もありません。ヘルパーさんやお手伝いさんの助けがあってできていることですが、献立も私が決めてお願いしています。パパは昔よりわがままになってしまったけれど、そのわがままがうれしいの。大島渚を支えられるのは私だけ。女優に代役はいても、妻の代わりはいないのですから。そして少しでも前を向いて二人で楽しいことを見つけて、一日一日を笑顔で過ごそう、そんな気持ちで日々を送っています。
(構成・高橋姿子)


【小山明子さんの本】

『パパはマイナス50点 介護うつを越えて 夫、大島渚を支えた10年
単行本
集英社刊
9月26日発売
定価:1,680円(税込)



プロフィール

こやま・あきこ●1935年千葉県生まれ、横浜で育つ。
松竹入社、55年『ママ横をむいてて』に主演し映画デビュー。
60年、映画監督の大島渚氏と結婚。著書に『いのち、輝く!』等。



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