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ついに完結した文庫版『水滸伝』(全十九巻+別巻)と、第五巻の刊行を迎え、ますます佳境に入る単行本『楊令伝』。両作品の魅力を、北方謙三さんと文芸評論家縄田一男さんが語ります。 「今日は、北方さんと刺し違える覚悟」と、強い意気込みで北方さんに対する縄田さん。どのような熱い戦いが見られるのか、お楽しみに。 ■合わせ鏡としての歴史 縄田 いささか大仰な言い方を許していただければ、今日は、北方さんと刺し違える覚悟でやってきました(笑)。 『水滸伝』が完結して『楊令伝』に入って、一巻目はいよいよ始まったという高揚感で一気に読んでしまったのですが、二巻目に入って、やや冷静に読んでいくと、これは生き残ったことを恥じている男たちを突き詰めている小説だということに気づいたんです。つまり、逆説的にいえば、ここに登場する男たちには自分の命よりも大切なものがあったということになります。そうした歴史小説は、これまでは戦中派の作家特有のものだったわけですけれども、それが初めて北方さんの世代の書き手から強く発せられた。小説を読んでいて久しぶりに、これは怖いと感じました。この男たちの思い、北方さんの思いを知ったからには、文芸評論を生業(なりわい)とする者として、正面から受けて立とうと決意をしたんです。 北方 いきなり刃を突きつけられた感じだけど、生き残ったことを恥じている男たちに焦点を当てて書こうとしたのかといえば、微妙ですね。書くほうの意識としては、それはないんですよ。ただ、どこかに後ろめたさはある。その後ろめたさは俺の人生にもあるもので、それが作品の中で肥大して、登場人物の悔恨だとか、いろんな情念になっているのかもしれない。 縄田 私がそうした後ろめたさを初めて感じたのは、『ビッグ・ウェンズデー』という映画を観たときです。作品の中で、私とあまり年齢の違わないアメリカの若者たちが、ベトナム戦争にかり出されていく。そのころ私が何をしていたかといえば、日本がアメリカに加担することでもたらされた経済的・物質的な豊かさの中で、何不自由なく育っていました。その後ろめたさを感じたときから、自分の世代を意識し始めたところもあります。 北方 我々の世代といったときに、おそらく縄田さんは全共闘世代を想定しているんだろうと思うけれど、ただ、俺自身は運動をやってるときにも、「自分は、つまらないことをやってるな」という意識が常にあった。そういう違和感というのは、おそらく戦中派の作家にもあったんだろうと思うんですよ。たとえば野間宏さんは、『真空地帯』という作品を書いているけど、戦争体験を絶対に語らない。本当に傷ついたこと、どうしようもなく挫折したことを、人は口にしないんだね。俺は全共闘世代でこんな体験をして、なんて話をするけど、そうしたことを口にする後ろめたさが絶えず、小説を書いているときにもある。ただ、その後ろめたさはどうしようもないものですよね、そもそも世代が違うんだから。戦争や軍隊を想像してみることはできるけど、実際には戦争が終わって、飢えることもなくなってから生まれている。でも、その後ろめたさが自分の中で増幅されて作品になっている、というのは確かですね。 |
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(一部抜粋) |
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