青春と読書
 奥田英朗の新刊が出るたびに、今度はどんな手で来るのかといつもドキドキしてしまう。奥田英朗の場合、読み始めてみないと、どの路線で来るのか皆目見当もつかないからだ。『最悪』『邪魔』という緊迫感あふれる長編の次に書いたのが、鮮やかな青春連作集『東京物語』で、その次があの『イン・ザ・プール』なのである。そのどれもが傑作ではあるけれど、あまりに傾向が違い過ぎる! これでは本線がどこにあるのか、まったくわからない。同傾向のものを書け、と言いたいわけではなく、そういうことを整理して気持ちを落ち着かせたい性格なので、いつも困ってしまうのである。新刊を手にするたびに、また何かやったんだろコノ、と思いながら胸が躍るのである。
 個人的な好みを言わせてもらえるなら、奥田作品でいちばん好きなのは、『マドンナ』と『ガール』だ。どんどん変化していく主婦の造形が絶品の『邪魔』も、ヘンなことでは極上の『イン・ザ・プール』ももちろん好きだけれど、あえて絞ればこの2作だ。前者は中年課長のさまざまなドラマを描いた作品集で、後者は30代OLを描く作品集。つまり二作ともオフィス小説である。経済小説でもなく恋愛小説でもなく、オフィスの中の些細なドラマを描く小説が読みたかったので、これは実に嬉しかった。いつも変化球を好む奥田作品にしてはストレートだが、もちろん奥田英朗の作品であるから、ストレートとはいっても、シンプルでもないし、単調でもない。いかにもこういうことってあるよなあという光景や感情を積み重ねて、実に巧みなドラマを積み上げるのである。
 たとえば『マドンナ』の表題作は、自分好みの新入社員が部下に配属されて心が千々に乱れる42歳の課長の話だが、この作品集が刊行されたとき、実はオレもそうなんだと酒場で告白する知人が少なくなかったことを思い出す。それを「マドンナ症候群」と言う。あるいは『ガール』の冒頭に収録された「ヒロくん」を見られたい。女性管理職になったヒロインのさまざまな葛藤を描いた短編だが、これも実に鮮やかだった。全然ストレートではない、という見方もあるだろうが、性に翻弄される男女をケレンたっぷりに描いた作品集『ララピポ』や、『イン・ザ・プール』から始まるあのとんでも精神科医シリーズを一方に置けば、これでもストレートなほうなのである。
 前置きが長すぎた。では、今回の『家日和』はどの路線なのかというと、ここまで書いてきたことからおわかりいただけると思うけれど、その『マドンナ』と『ガール』の系譜を継ぐ作品集なのだ。ただし、今回はオフィスではなく、舞台となるのは家庭。夫婦のさまざまなドラマを描く作品集である。
 いやはや、うまい。『マドンナ』と『ガール』がそうであったように、今回もしみじみと読まされる。たとえば冒頭に収録された「サニーデイ」は、42歳の主婦山本晴美がインターネットオークションにはまる話だが、落札者に感謝されたとき、「胸が熱くなった。感謝されるとはなんて素晴らしいものか」と晴美は述懐する。「他人に褒められることのない主婦は、それだけで嬉しくなる。その充実感が得たくて、つい毎回オークションに参加してしまう」と続けるが、つまりその裏側には日常への漠とした不満がある。しかし、それを直接は描かず、肌に張りが出て皺がなくなり、通りを歩いていても自然に背筋が伸びる姿を描くのである。もちろん、オチがつくのだが、それは読んでのお楽しみ。
 あるいは、続く「ここが青山」も繙(ひもと)こう。ここでは夫の側から描かれる。36歳の湯村裕輔は14年つとめた会社が倒産して放り出されるが、妻の厚子が元の職場に復帰して主夫に転身。男が家事をするなんてと周囲からは同情されるものの、裕輔も厚子も不満はない。役割を交代してみると、それが思いの外うまくいくのである。その役割交代のディテールを克明に描いて共感大。特に夫婦の営みの場面はケッサク。
 このように、妻の側から、夫の側から、それぞれの事情と感情と、その光景が鮮やかに描かれていく。別居中の夫が快適な一人暮らしを始めるためにソファや椅子など買い込んで、居心地のいい部屋が完成すると同僚たちの溜まり場になる「家(うち)においでよ」、名簿入力の内職をしている主婦が若い担当者に勝手に情欲を覚える「グレープフルーツ・モンスター」、事業欲旺盛な夫に振りまわされる「夫とカーテン」、ロハスに凝り始めた妻の料理に悩む夫を描く「妻と玄米御飯」と、さまざまな夫婦の風景が絶妙に描かれていくのでたっぷりと堪能されたい。
 不満は一つだけだ。『マドンナ』と『ガール』で男女それぞれの側からオフィス小説を書いたように、夫婦のドラマも妻の側からと夫の側から、つまり2冊書けるというのに、一冊で両方の話を書くというのは贅沢すぎてもったいない。あと一冊分、読みたいぞ。
  (きたがみ・じろう/文芸評論家)


【奥田英朗さんの本】

 『家日和』
単行本
集英社刊
4月5日発売
定価:1,470円(税込)
 



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