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遊廓の灯が消えて、早いものでもう40年以上になる。 私は横濱最大の遊廓のなかで生まれ育ち、現在も、その真金町に住んでいる。 もちろん、いまではマンションが立ち並び、昔の面影を探すのはむずかしい。私が小さな時、この界隈には、たくさんの子供たちが走り回っていたが、いまでも残っているのは、私だけだ。 私の家は「富士楼」といって、経営者である祖母は大変に有名だった。なにしろ、この祖母が町を歩くと、地元のやくざがサッと両側に寄って、祖母のために道をあけたというのだから、すごいものだ。 私が子供の頃のこの町は、大変に賑やかだった。正月には髪を結い、晴れ着を着た女性たちが客を待ち、3月ともなれば、廓のなかの大通りの桜並木が満開となり、夜桜見物としゃれこんだ旦那衆が、動く夜桜を味わおうと次々に見世のなかに吸い込まれていった。 ちなみに私は戦後、残されたこの桜並木以外のところで花見をしたことがない。 少し寒くなると、酉の市。宝船やら小判やらおめでたい飾りのついた熊手を売る店が大岡川沿いにずらーっと並び、威勢のいい手拍子があちらこちらから鳴り響いた。 腕のいいお女郎さんは、旦那に熊手を買わせて自分の部屋を飾り立てた。もちろん縁起物だから、祖母も毎年、決まった店から熊手を買った。本来なら、だんだん大きなものにしなければならないのだが、祖母が買うのはいつも同じ大きさだった。 遊廓に来るのは、お客さんばかりではない。「物売り」がよくやってきた。たとえば、夕方になると決まって「稲荷寿司屋」が現れる。 すると、どこからともなくお女郎さんたちが姿を見せ、我先に稲荷を買っていく。自分で食べるのだろうと子供心に思っていたが、祖母に話を聞くと、これがちがった。客が女性と床に入る前に食べるのだという。「なぜ寝る前に食べるの?」などと野暮なことは聞かなかったが、「腹がへってはいくさはできぬ」ということだろうと納得した。 カラスがカーと鳴いて朝が来ると、昨日、稲荷寿司を売りに来たおじさんが、今度はコハダのにぎりを持って現れる。すると、また、どこからかその売り声を聞きつけたお女郎さんたちが姿を見せ、あっという間に売り切れになった。 「汗かいた いくさのあとの コハダ寿司」なるほど、一戦終えて、ひと眠りしたあとはさっぱりしたいのだ、とひとりで感心していた。 町内に、漬物屋があった。漬物しか売っていない。祖母はその店で、春は菜の花、夏は胡瓜、秋は茄子、冬は白菜と旬の野菜の漬物を買った。 私たちが食べるわけではない。客に出す酒のつまみだ。10円で買った漬物を50円で出す。すべてにわたって抜け目がないのが、見世を繁盛させる秘訣だと、その時学んだ。 また、辻占も現れた。 遊廓で働いている女性たちは、とても占い好きで、この辻占が顔を見せると、すぐに人垣ができた。 辻占といっても、別に筮竹を持って占うわけではない。竹の先にはさんだお御籤のような紙を開いて、線香で火をつけると、その火の道が小さな紙のなかをジグザグに進んで行き、必ずどこかにたどりつく。そのたどりついた先が「大吉」であったり、「待ち人来らず」だったりする、ただそれだけのことだ。 だが、辻占のお兄さんは、それだけでは商売にならないことを知っていて、買ってくれたお客さんに南京玉すだれを見せる。 「あ、さて、あ、さて、さては南京玉すだれ……」 私たち子供も遠巻きに見ている。すると、最後にハートの形を作って、必ずこう言った。 「お姐さんのあそことどっちが大きい?」 私たちがゲラゲラ笑うと、「シーッ、シーッ」とまるで鶏を追い出すように、子供たちを払った。 帳場に必ず似顔絵の手配書が貼ってあり、犯人らしき人物が登楼すると、先に金を受け取り、部屋に案内したあとで、警察に通報した祖母。大きな荷物を持ってやってきた客のバッグを預かり、なかに盗品が入ってないか、必ず調べていた祖母は、ビクターの犬のように小首を傾げる孫の私にこう言った。 「悪いことをしたヤツは、必ず遊廓に遊びに来るもんなんだよ」 『聞き書き横濱物語』の語り部、松葉好市君は、私と同じ真金町遊廓で生まれ育った幼なじみだ。 この本のなかには、私たちの懐かしい思い出がたくさん詰まっている。彼の語る古き良き横濱に浸っているうち、いつの間にか、私は、女手ひとつで自分を育ててくれた祖母の姿を思い出していた。 |
【松葉好市さん/小田豊二さんの本】
単行本 発行=ホーム社 発売=集英社 9月26日発売 定価:本体1,800円+税 |
プロフィール
昭和11年、横濱は真金町の遊廓に生まれる。 昭和26年に桂米丸に弟子入りし、27年に初舞台。その絶妙な語り口は多くの聴衆から支持を受ける。 現在、落語芸術協会副会長。 |
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