青春と読書
 父が倒れたのは45歳のときで、日本の敗戦の3か月前である。クモ膜下出血と診断されて敗戦を迎えたあと、役人だった父はマッカーサーの公職追放令によって職を追われ、病と失職の二重苦にあえいだ。小康を得て故郷に戻ってからは商売をはじめている。肉体的な後遺症はなく幸いだったが、私は父に性格的な後遺症が残ったのではないかと疑ったりした。官舎の座敷に達筆をふるって「努力即権威」と記した色紙を飾っていた父が、故郷の店先の色紙に「春夏秋冬二升五合」と書くようになったからだ。
 「何? 意味がわからんのか。これは“年じゅう商売繁盛”と読むのだ。アッハハハ」
 と父は爆笑した。二升を升倍(商売)になぞらえ五合を半升(繁昌)と計算したのが本人の発案か他人の流用かはともかく、家族は役人時代の渋面からは想像もつかない父の明るさに戸惑った。以来、晩酌と爆笑を欠かさず、発病から40年目の85歳で父は世を去っている。
 それにしても、あの変化は何だったのだろう。脳血管系の病気の後遺症かもしれないと私は思ったりしたが、最近になってふと気がついたことがある。
 父は状況を見極めて内蔵する二面性のうち後半の人生を豊かに過ごす知恵を働かせ、秘めたる一面をうまく操って機嫌良く生きる工夫をしたのではないか。そう考えると辻褄が合う。そう考えながら私は病と失職というアクシデントに負けなかった父を新たな目で見直し、人間の二面性に注目するようになったのである。
 「ならば面白い人がいる。彼は官僚としての大役を終えて、いま別な舞台に立ったばかりだ。この先の人生をもう一幕たのしむだろう」
 と紹介されたのが金沢学院大学学長の石田寛人氏であった。氏は東大工学部原子力工学科の一期生として東京オリンピックの年に卒業したというから、逆算すると日本がアメリカと戦争をはじめたころ生まれたことになる。卒業後に科学技術庁に入って専門分野をつき進みながら事務次官まで上り詰め、勤続36年で退官したあとチェコ特命全権大使を務めた。チェコはかつて科学技術の先進国といわれたから、ここまでは有能な技術系官僚コースとして特に驚くことはない。
 だが、科学技術庁原子力局長時代に、義太夫の脚本のコンクールに応募して入選したと聞いて私はたちまち関心を持った。コンクールは国立文楽劇場と大阪市教育委員会の主催による「文楽なにわ賞」で、作品は400字詰め原稿用紙60枚というから、余技としてでなく本格的に取り組んだのであろう。
 原子力工学と義太夫を体内に同居させている人と面談すべく、緊張して約束の場に出向くと、経歴から想像したイメージが拍子抜けするほど快活な人である。
 「あの義太夫は秋津見恋之手鏡という加賀藩士大月伝蔵の恋物語で、もちろん文語体で書きました。文字はすべて旧仮名づかいにしたかったのですが、これがなかなか……」
 と話題はのっけから義太夫である。順序として原子力から聞き出しにかかると、
 「大学入学は1960年です。1954年には新進気鋭の中曾根康弘議員が、ウラン235を活用した原子力にちなんで2億3500万円の原子力予算を獲得して世の注目を集めたし、アメリカでアイゼンハワー大統領がアトムズ・フォア・ピースととなえたこととも相まって、当時の日本は政府も国民も原子力に好意的でした。私は実父が英文学者でシェークスピアの専門家だったので、文系にも心動かされましたが東大初の原子力工学を選んで役人になりました。石川県出身の法文系の行政官はそれほどおおくないこともありまして(笑)。でも、いまだにシェークスピアの専門家小田島雄志さんには憧れを感じますねぇ」
 とのことだから、スタートラインから文系と理系に等分の興味があったらしい。
 日本に原子力基本法ができたのは1955年、石田氏が大学に進んだ1960年といえば民間から皇太子妃に選ばれた正田美智子さんのご成婚が報じられたあと、一目パレードを見たいと各家庭に白黒テレビが普及したころだから、理系の人にとって新しい電力資源としての原子力は関心の的であったろう。
 それはともかく、義太夫はどこからどう石田氏の人生に入りこんだのか。
 「あっ、そのことですけど、私はそもそも父の従姉が吉岡弥生の門下生の医学博士だったので、東京女子医大病院で生まれました」
 と石田氏は切替えが早い。吉岡弥生といえば日本初の女医の養成機関を創立したことで知られている。石田氏は実母を早く亡くし、その後母方の実家の石川県小松市で育った。小松市の莵橋神社と本折日吉神社は、江戸時代からの伝統として子ども歌舞伎が奉納されてきたという。
 「そんなわけで、生まれは東京でも育ちは莵橋神社の氏子の住む曳山八町の京町だった私は、歌舞伎とも義太夫とも幼なじみなんですよ。小松では、よく素浄瑠璃の会がありました。そもそも江戸時代には人形浄瑠璃で大当たりした出し物が、歌舞伎に持ち込まれたことがおおいのです。歴史的に歌舞伎と文楽は大きく影響し合ってきたようですね」
 石田氏の話は回転が早い。幼少時代を子ども歌舞伎の地で過ごした石田少年の胸にどれほど義太夫がしみこんでいるかは容易に見当がつく。2004年の3月20日、小松駅前の石川県こまつ芸術劇場のこけら落としには團十郎、三津五郎、芝雀らの名優と並んで石田氏は芸術劇場の運営アドバイザーとして出席している。
 「たしかに、原子力と違和感なく義太夫を口ずさめる人間は異例かもしれません。それにしても今日まで私が両刀をたずさえてきたのは、和敬塾に入塾して2年目に原子力工学の進路を決めたとき、技術者だった前川喜作塾長から『科学一辺倒の人間にはなるな』といわれた一言が、よほど心に響いたんだと思います。あのときの言葉を、いまでも覚えているくらいですから」
 突然、飛び出した「和敬塾」に私はもちろん耳をそばだてた。聞いたこともない3文字だが、字画からすると進学塾か、武芸場か、はたまた右翼団体かと思わせる。
 「いえ、男子専用、女人禁制の学生寮です」
 と石田氏は楽しげにいったあと、こうつづけた。
 「1960年といえば安保騒動の年で、あのころ地方都市から息子を東京の大学に進ませる親は悩んだと思います。たまたま人を通じて嘉治隆一さんが発起人に名を連ねておられる学生寮だと知って、親は信用したんですね。塾長の前川喜作さんは、前川製作所の創始者といえば分かるでしょう」
 嘉治隆一氏は朝日新聞論説主幹としてよく知られた人だし、前川製作所は世界をリードする冷凍機のメーカーである。ここまで聞けば誰しも業績を上げた企業が利益の社会還元として学生塾を開いたと思うだろう。だが、和敬塾は財団法人として前川製作所の収益とは無関係に独立採算で運営されているというのだ。
 「たしか私が入塾したころ東大の駒場寮が学食つきで一か月ほ3千円だったのに、和敬塾は二人一部屋、共同風呂と二食つきで7千円くらいでした。アパートで自活するより安いけど大学の寮や各県で設営している郷土出身の子女のための寮より高いはずです」
 和敬塾の説明をはじめると石田氏の弁舌は義太夫を語ったときのようにさわやかになった。氏の話を総合すると、まず東京・文京区のホテル椿山荘に近い旧細川侯爵邸跡地に4棟の鉄筋の建物があり、現在、全国から450人ほどの塾生が集まってきているという。創立は1955年で当初は塾生も定員に満たなかったが、石田氏が入塾した創立5年目にはすっかり軌道にのって、以来、今日まで4千数百人の学生を世に送っている。
 「入塾のための面接試験では、お定まりの尊敬する人物を聞かれました。こちらとしてもお定まりのシュバイツアーと答えたまではいいのですが、東洋人も付け加えたほうがいいと考えて孫文の名をあげたら、あとで試験官がかなり頭を抱えたようです」
 と石田氏は声をたてて笑ったが、たしかに60年安保のころ、日中は国交関係もなく、中国国内は文化大革命の兆しで混乱していたはずだ。試験官が中国人孫文をことさら尊敬する理由を詮索したのはむりもない。試験官は役員や寮長で、いまも東西南北4つの寮に寮長や副寮長が常勤しているが、いずれも原則として教育経験者だというから親としてはさぞ心強いだろう。
 「前川塾長は、私のことを先生と呼ぶなオヤジと呼べといってましたし、寮長たちからも管理、監督された記憶は全くありません。門限は12時くらいだったと思いますが、門限すぎて帰ってきた者は一階に住んでいる仲間が窓から引き上げてくれますしね。掟としてきびしく徹底していたのは部屋に女の子を入れるな、ということだけでした」
 それも女人禁制というわけではなく、女性を連れてきた時は別棟の細川邸で談笑することになっていた。当時は年に一度の塾祭に限り女性に自室を“見学”させるのが許されたそうで、「但しドアは開けたまま」と条件をつけた寮長たちの配慮がほほえましい。
 時節がら、安保のデモに参加したいという学生も当然いたはずだがと尋ねたところ、
 「前川喜作さんはデモに参加したい者は行け。信念をもって参加するならたとえ警察につかまっても私がもらいさげに行ってやるから心配するな、とまでいってました。ただし、皆が行くからふらっと行ってみようという気持ちで参加すれば必ず後悔するからやめろ、と塾生を集めてキッパリいいました」
 とのことで石田青年は、この合理的な訓示にしたがってデモには一度だけ参加したが「思うところあって」やめている。
 「今になって考えると、和敬塾の良さの一つは同世代の多彩な友人がつくれることだと思います。水戸のおかめ納豆本舗の高野君も同期だし、チェコ大使をしていたときにプラハにまで来てくれた日本化薬社長の島田君も和敬塾に入ったからこその友人だなぁ」
 と石田氏はいうが塾生は出身地域でいうと北は北海道から南は沖縄まで、在籍校も国立、公立、私立など各種とりまぜているばかりか、塾の方針として当時から海外の留学生も受け入れている。
 「アメリカのスタンフォード大学からきていた彼は共同風呂が苦手だったみたいです(笑)。塾祭では私もお手伝いして出し物の“白波五人男”の忠信利平役を彼にふり当て、『餓鬼の時から手くせが悪く……』なんて台詞をいわせたんですよ。喜作オヤジさんは笑いをかみ殺して目を細めていました」
 石田氏の尽きない思い出を聞きながら、人間の二面性を探るつもりの私の関心は、いつしか青年の多面性と可能性の育成を手がけた和敬塾に傾き、早くもおかめ納豆と日本化薬の連絡先を調べにかかったのである。
 (つづく)


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プロフィール

かみさか・ふゆこ●ノンフィクション作家。
東京都生まれ。 ’93年に菊池寛賞を受賞。著書に『「北方領土」上陸記』『上坂冬子の上機嫌 不機嫌』等。



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