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よく日に干して膨らんだ布団に顔を埋(うず)め、夜の帳(とばり)のなかで深く息を吸ってみる。太陽のにおい。ひなたで丸くなっていたミケの背中も同じ匂いがした。その先で背を向けて眠っている小麦色に焼けた素肌の細い肩。髪の匂いを嗅ぎながら、うなじに膚を触れてみる。あたたかい。やわらかい。えもいわれない心地よさ、優しい気分になる。キモチよさそうに目を閉じている美しい眉。深い安心感。自分のためでなくても、こいつのためだけでも、俺は生きてゆかなきゃならないな、なんて思う。髪のいい匂いの中で目を閉じてみる。愛するものと肌が触れる。安堵。泥のようなまどろみ…… そんな想いに溶けそうになるとき、突然雷のように僕の背をつんざいて走る戦慄があるのだ。鞭打たれたように醒めて身震いし、くらぐらとした部屋のなかで、僕は大きくため息をつく。 ことばで決して伝わらない、お金がかかるわけでもない、でも人間にとって一番大事なぬくもりがある。そして、その安らぎとあたたかさをずっと禁止され続けている友達がいる。一度は「出家修行」の名のもとに。家族の安らぎは邪念として禁じられた。そしてこの11年間は重要刑事事件の被告人として。未決勾留の独房のなかで、殺人犯として人間的なぬくみ一切に触れることを禁じられている。僕が生活の中で豊田亨のことを思うのは、宗教とか思想とか、大所高所からの議論より、むしろ「小さな幸せ」「小さな心地よさ」のかけがえなさに触れたときだ。「メディア・マインドコントロール」という、長ったらしいカタカナを使って僕が言いたいのも、堅苦しく難しい概念ではない。むしろ瞬間的に感じとってしまう、大事な居心地の悪さを伝えなければならないと思うのだ。 剥ぎ取られる皮膚感覚 日本の法廷は、長期間禁固の状態にあるものが「拘禁症状」を示すという医学的な事実を知っている。拘禁病を患うと、被告は裁判を受けられないと主張することができる。病んだ精神では正常な判断が出来ない。それを法廷は認める。だが同じ法廷が「出家」という名目の拉致監禁状態で、拘禁病と同様、あるいは薬物なども使用した、もっと暴力的な洗脳の犠牲者について「躊躇を感じなくなったというに過ぎ」ず、責任能力が問えると断じる。そしてその論理的矛盾に一切気がつかない。法の定めにないからだ。たとえ法が不備であっても。「悪法もまた法なり」ということか。検事や弁護士も含め、法廷では条文や判例など、文字に記されたことに基(もとづ)いて情状を争うことはあっても、明白な科学的な事実に対する常識的な皮膚感覚がまったく希薄なのだ。疑わしきは被告人の有利に、という法の大原則がありながら。理系出身の僕には、どうにも理解できない。だが彼らの常識ではふつうらしい。そして“何ぴとにも制限されない「裁判官の自由」”によって、医学など進んだ専門の見地からすれば明らかな誤りであっても、すべては見過ごされ「死をもって贖うしかない」などとする重大な判決が下される。 2004年10月26日、イラクを旅行中だった日本人青年K君(享年24)はバグダード近郊で武装勢力に拉致されてしまった。犯行グループは自衛隊が48時間以内に退去しなければ彼を処刑すると声明を流す。懸命の交渉が進められたが48時間以内に決着することはなかった。30日に日本人の斬首遺体が発見され、31日にK君本人であると確認される。11月2日、K青年が殺害される模様を記録したビデオがインターネット上にアップロードされ、即日全世界でダウンロードされた。 親しいジャーナリストの友人たちもすぐにその画像を見た。僕は決して見たいと思わなかった(後に脳血流可視化測定で一度だけ視聴し、脳裡に焼きついて、今も「彼」と共に生きている)。それより、当初から、メディア上での模倣犯や類似犯が出ることを強く危惧した。直ちに模倣犯の危険についてメディア・マインドコントロールの脳科学的背景、予防公衆情報衛生の観点を含む解説を書いてX新聞の論壇欄に送った。デスクの対応は完全に素頓狂だった。ポイントは全く理解されず、投稿は没になった。ネットにああいう画像が流れる、携帯メールなどで模倣の愉快犯などが出ないとも限らない、警鐘を鳴らすべきであろう。僕の観点では至極当然なのだが、社内外の利害でもあるのか、いっさい要領を得なかった。デスクまで生き残る過程で身についた、新聞人の価値観なのか。辺見庸がそれを「恥」と書いているのを、ずっと後になってから読んだ。ともあれ、普通の生活人が当たり前に持つ常識、その皮膚感覚が剥ぎ取られ、麻痺しているのを感じた。 こんなやりとりがあった翌週、11月17日奈良県で幼女誘拐殺人事件が起きた。あろうことか、携帯電話の写真メールを通じて、犯人の手によって幼女の無残な姿が母親にまで送信される事態となった。残念なことだが、僕が前の週に書いた通りの構図だった。携帯電話の写真メールを用いた類似犯の出現。さすがに担当者は恐縮し、ややあって年明けに同じ系列の週刊誌に「マインドコントロール」というタイトルで記事を載せることになった。ようやく掲載された翌2005年2月には、奈良の事件の犯人、小林薫は逮捕されていた。 |
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(一部抜粋) |
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プロフィール
1965生まれ。東京都出身。 東京大学大学院博士号課程終了。東京大学大学院情報学環・学際情報学府助教授(作曲=指揮/情報詩学研究室)。初のノンフィクション作品で第四回開高健ノンフィクション賞を受賞。 |
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