青春と読書
ぼくの高校時代の夏休みの典型的な1日。

 まず朝遅く起きる。コーヒーをのみながら、ゆっくりと新聞を読む。それから自分の部屋にもどって、ラジオのスイッチをいれ、机のうえに積まれた本から1冊抜きだす。薄い文庫本なら、昼までに読みあげてしまうのだ。
 昼食をはさんで、今度はまた別なジャンルの本を1冊読み始める。これは夕方までになんとか読み切ってしまわなければならない。そうでないと、きちんといいアベレージがだせないのだ。さすがに2冊読み終えた夕方には、目も疲れているし、自分の部屋でごろごろしているだけなので、身体がなまってくる。
 そこで夕日を見に、自転車か徒歩で散歩にでかけることになる。夕風は心地よく、わが家の近くにはサンセットビューには格好な放水路があった。本の読みすぎで熱をもった頭と目を、コンクリートの土手に座って涼ませるのである。
 夜はまたラジオをききながら、その日最後の1冊に手を伸ばす。昼とは違って、同じ文庫本でもページ数の多い、内容の重いものを読むことが多かった。ラジオはFENか音楽番組の多いFM局で、好きな曲がかかったときなど、寝そべったベッドのうえでつま先でリズムを取りながら、快調なペースでページを飛ばしていくのだ。
 真夜中をすぎて3冊目が終了すると、1日のノルマは達成である。ぼくは月曜日のたびに過去1週間の1日平均読書冊数をだしていた。このアベレージで、3冊をうわまわるのが夏休みの目標だったのである。でも、いくら時間があって目がよくても、それは遠くかなわない目標だった。今でも覚えているけれど、最高値でもひと月平均で、1日2.8冊が限界だったのである。なぜそんな読書耐久マラソンみたいなことをしていたかといわれても、困ってしまう。
 ただ当時のぼくには、本を読むのがむやみにおもしろくてしかたなかったのだ。理由なんてないし、まだ小説を書けるとも思っていなかった。新しいページに目をさらし、物語のうねりのなかを泳ぐのがしあわせだったのである。近所の図書館を3館まわり、週に4冊ずつ借りだしても、当然本の数が足りなかった。こづかいはほとんど文庫本に消えたのである。書店員には休みがあるけれど、夏休みのぼくに読書のオフはない。毎日必ずどこかの本屋に足を運んでいた。どの棚にどんな本があるか、店の人間よりもよく知っていたはずだ。ぼくは青春の盛りを、アルバイトもせず、ガールフレンドと遊ぶこともせずに、ひたすら言葉の海に溺れてすごしたのである。
 この歳になって考えると、もっとほかの時間のつかいかたもあったかもしれないとは思う。けれども、あのころの本の世界への熱狂的な耽溺がなかったら、ぼくはこうして作家になどなっていなかっただろう。なっていたとしても、まるで別なタイプの小説を書いていたはずだ。青春期の読書には、その人の一生を決め兼ねないほどの重みがある。おもしろいストーリーと流れのいい文章という形で、その重みを手渡せること。ある生きかたや世界観を、無意識のうちにまるまる伝えられること。1冊の本の不思議さ、素晴らしさと怖さはそこにある。

最近、趣味は読書という若い人が増えているのだとか。

 これはある音楽ディレクターにきいた話。彼がいうには最盛期の1997年から音楽CDの市場は30パーセントも縮んでいる(でも、出版界はそれほど厳しい落ちこみではなく、せいぜいその半分くらい)。新人歌手のマーケティング調査などで若い人たちにアンケートを取ると、趣味の欄には読書と書く人が目につくようになってきた。また、そういう趣味をもつのがカッコいいことであるような風潮もあるのだそうだ。
 うーんとぼくは考えてしまった。それは素直によろこんでいいものだろうか。ある趣味がイカしていると評価されるのは、先端的な少数派によって見せびらかし的に消費されているからではないのか。このあたりは評価の分かれるところだけれど、それでも悪い気がしなかったのは確かだ。
 子どものころから本を読み続け、大人になっても読書から脱落せずになんとか本にしがみつき、今ではこうして本を書くことで生活している。ぼくは根っから本の世界の住人なのだ。編集、製版、印刷、製本、流通、書店。作家ばかり名前をあげられるけれど、実際には本の世界では膨大な数の人たちが仕事をしている。ぼくはその世界の住人であることに誇りをもっているのだ。だから、若い人がひとりでも多くこちらの世界に参加してくれるなら、単純にうれしい。だって、まだ見ぬ読者をよろこばせ、その心を動かすために、誰もが全力をあげているのが本の世界なのだ。これほど単純でわかりやすい目的なら、きっと一生試みる価値はある。多くの人がそんなふうに考えているのではないだろうか。ひと言でいえば、みんな本が好きだから、あんなにたいへんな仕事を無理を承知でこなしているのだ。
 同士諸君、今日もありがとう。明日もまたわれらが架空の領土を広げ、精神の同類を増やすために、各自のもち場でいっそう奮闘してください。ぼくも締切がんばります。

『NANA』がモンスター的なヒットになっているという。

 このところ立て続けにテレビクルーがぼくの仕事部屋にやってきて、なぜこのマンガが女性たちの心をこれほどつかんだのか取材をしていった。ぼくのこたえは簡単である。まず画力が圧倒的に高いこと、それに感情表現の細やかさ。このふたつの技術が図抜けているうえに、ストーリーの中心にはふたりのナナの女性同士の友情がすえられている。恋愛やイケメンやバンドのサクセスストーリーも、もちろん華やかに描かれているけれど、それは「友情」という恒星をめぐる惑星のような役割なのだ。女性同士の友情にみな敏感に反応したのではないかとぼくは思う。それは最近の直木賞受賞作『対岸の彼女』と同じなのではないだろうか。
 テレビカメラのまえで、そんなことを手短にこたえながら、ぼくはちいさなころから少女マンガを読んでおいてほんとうによかったと考えていた。こうした取材をこなせるのもそうだけど、そんなことより少女マンガは作家の仕事にほんとうに役に立つのだ。先ほど感情表現のメッシュの細やかさなんて書いたけれど、その点ではほとんどの男性作家は少女マンガの第一線のレベルに遠くおよばないのだ。
 ぼくが初めて恋愛小説を書いたのは、「小説すばる」でなにか不定期に連載をと依頼された1999年の秋だった。そのころはまだ『池袋ウエストゲートパーク』のようなミステリー系の作品しか書いたことはなく、まったく新しいチャレンジだったのである。でも、さすがに小学生のころから「週刊マーガレット」や「りぼん」を読んでいた(うちの姉たちが買っていた雑誌だ)ので、あわてることはなかった。
 少女マンガが歴史的に達成したことを、ぼくなりのセンスとていねいな文章で小説の世界に置き換えればいいのだとわかっていたからだ。5月に文庫化された初めての恋愛短篇集『スローグッドバイ』に収められた10篇は、そうやってひとつずつ仕上げたものである。人も死なない、謎解きもサスペンスもない小説を書くのは、実に楽しい経験だった。派手な道具立てやアクションのない分、文章のセンスが浮き立ってくるし、細やかな感情を描きやすい。失恋したばかりの女の子の気もちをあれほど真剣に想像するなんて、なかなかほかの40代の男性にはできない経験なのだ。書籍だけでなく、マンガだって立派な読書だとぼくは考えている。世界に例を見ないほど高度に発達した日本のマンガ文化を見逃すなんて、もったいない話だ。少女マンガなんてと敬遠してきた男性読者はぜひ新しい世界を発見してもらいたい。ぼくのように創作の役には立たなくても、女性の心理についてより深い理解がえられるはず。日本の少女マンガは世界でもっとも優秀な恋愛シミュレーターなので、実際の恋愛にもきっとご利益がありますよ。
 ぼくたちは言葉をつかって人とつながり、恋愛や仕事のような共同の事業をなんとか成功させようと努力している。毎日たくさんの言葉をつかっているのだ。本を読むことは楽しいだけでなく、功利的な行為である。本は読者に力をくれるのだ。言葉をあつかう力、自分を表現する力、見知らぬ誰かと意思をつうじる力、自分が誰でなにを求めているのか測る力。1冊の本のなかに折りたたまれた無数の言葉は、読者のなかに眠る可能性を揺り起こす魔法の力に満ちているのだ。
 あなたも、この夏の魔法の1冊を見つけてください。


プロフィール

いしだ・いら●作家。
1960年東京都生まれ。
97年『池袋ウエストゲートパーク』でオール讀物推理小説新人賞、2003年『4TEEN フォーティーン』で直木賞を受賞。著書に『1ポンドの悲しみ』『ブルータワー』『スローグッドバイ』等。




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