青春と読書
 憲法を訳すことになった。
 そう、今のあの日本の憲法。
 だけど憲法って、ふつう訳すものか?

 現行の条文の他に英語のテクストがあることは広く知られている。成立過程にアメリカが深く関与していたことも歴史の本に書いてある。たとえば、2年前に翻訳が出たジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』という戦後思想史の本などが詳しい。
 英語のテクストがある以上、それをまた訳すことは可能だ。これは権威への挑戦としてなかなかそそられるものがある。『ハムレット』だって『源氏物語』だって何種類も訳があるわけだし。
 でもね。

 きっかけは「前文」を訳したことだった。一昨年の9・11の後、アメリカ政府のふるまいはおかしかったし、それに追従するばかりの日本政府も異常だった。それを批判している途中で、日本という国の基本の姿をもう一度見ようと思って「日本国憲法」を開いた。
 第一条の前にまず「前文」がある。理想主義的で、格調があって、なかなかいい。
 しかし悪文。ぼくの文章感覚から言うと、センテンスが長すぎる。だから節どうしの関係がわかりにくい。原文の長いセンテンスを切って意味を取りやすくしたらどうだろう。
 だいたい日本語はことを決める言葉がセンテンスの最後に来る。「私は、現アメリカ大統領の優れた知性を深く信頼し、その敬虔な宗教心を敬愛し、武力に全面的に依存する施政方針にいたく共感し、今回のイラク撲滅の聖戦に心から賛同するもので」と言ったところで、「はありません」と結ぶこともできる。同時通訳者が嘆くのはこの点だ。

 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」というのが公式の訳文。
 主語と主たる動詞の間が長すぎる。「日本国民は」から「確定する」までがあまりに遠い。英語ならば隣りにあるものが、いくつもの条件節によって隔てられている。

 この間を少しは縮めてみようと思って訳すとこうなった――「私たち日本人は、正しく選ばれた代表からなる国会を通じて、私たちと子孫のために、日本国を動かす権能は日本人全員が共有するものであることと、この考えの上に立ってこの憲法をゆるぎなく制定したことを、まず宣言する。
 これは、世界の国々との協力のもとに得られる平和の成果やこの国土にゆきわたる自由の喜びを私たちが失うことがないように、また政府のふるまいのために戦争の恐怖が再びこの国を襲うことがないように、と考えてのことである」

 これが2001年の冬に試みた訳だったが、これではまだ駄目だと思った。どうも中途半端だ。
 そこで今回もう一度やってみた――「私たち日本人は、国を動かす基本の力は国民みなが持ち寄って生まれるものであることを、まず宣言する。
 私たちはこの考えの上に立ってこの憲法をしっかりと制定した。これは、世界の国々と協力して作ってゆく平和な暮らしや、この国にゆきわたる自由の喜びを私たちが失うことがないように、また政府のふるまいのために恐ろしい戦争が再びこの国を襲うことがないようにと考えた上で、自分たちできちんと選んだ代表が集まる国会を通じて、自分たちと後の世代のために、決めたことである」。

 3つ並べてわかる特徴は、長くなっていることだ。
 原文にはものすごくたくさんの内容がぎっしり詰まっている。少しゆるめた方がいい。ほんとうに大事なことと二次的なことを分けて、順番を考える。
 堅い漢語にばかり頼って訳したのでは、官僚の文体になってしまう。なぜならば官僚は漢語という煉瓦を積んで造った砦にこもるものだから。そうやって国民(=大衆、人民、有権者、主権者)の批判をかわすものだから。
 だから、なるべく専門語に頼らない。「主権が国民に存すること」で説明したつもりになってはいけない。「国を動かす基本の力は国民みなが持ち寄って生まれるものであること」というぐあいに懇切丁寧に、しつこく言う。

 前文を二度も訳した勢いに乗って、いっそ全部やってみようかと無謀なことを考えた。
 専門家にすればとんでもないことだろう。素人が手を出せる領域でないことはよくわかっている。法学の体系に則って、あらゆる面から整合性のある文体として組み立ててあるものを、無知蒙昧な輩に崩されてたまるか、という声が聞こえそうだ。
 ひょっとしたら本当に誤訳だらけかもしれない。刊行したとたんに八方から石が飛んできたりして。

 しかし問題はいくら専門家が揃っていても、現行の憲法が日常的なものになっていないことだ。憲法なんてスーパーの買い物の役に立つわけではない。しかし、スーパーに商品が並び、それがどこかで作られ、それを買うためのお金があなたの手の中にあって、あなたは働くことでそのお金を得て、その権利は法律できちんと守られていて、その枠組みとして社会は……と考えると、憲法はなかなか大事なのだ。
 今のように何の議論もないまま国の方針ががらりと変わるのを見ていると、一度は憲法に戻ってみなければと考える。

 ぜんぶ訳してみて、いろいろなことがわかった。
 今の憲法の性格がつかめた。「国民の権利と義務」のところはなかなかよくできている。
 しかし、これから最も大事になるはずの環境のことなどは何も書いてない。
 それに現実の国の運営において、三権の中で行政ばかりが強いという実態を憲法はチェックできない。今のままで理想的と言い切ることはできないようだ。

 憲法が硬直している。法の現場で機能することが少ないし、憲法を巡る議論は護憲・改憲両陣営の罵倒の応酬に終始していて、どう見ても生産的でない。
 だいたい、なぜ最高裁は違憲立法審査権をほとんど行使しないのだろう。たいていの場合、「それは高度に政治的な問題である」と言って判断を避ける。高度に政治的な問題だからこそ、行政権の範囲を超えるからこそ、裁判所に持ち込まれるのではないか。
 役者ならば主役として舞台の真ん中に立つことを避けてひたすら脇役にばかり回る情けない奴。三権の一つを任されているという気概がない。終わった選挙をひっくり返し、完成したダムを壊して原状復帰を命ずるくらいの力が最高裁にはあるはずだ。少なくとも憲法の条文からはそう読みとれる。

 硬直のいちばん大きな理由は第9条らしい。これが現実とあまりに離れているから、憲法ぜんたいが日本の今のありかたから浮いて見える。それに引きずられて他の条文も軽んじられる。
 これとまったく無関係な案件でも踏み込んで判断すると、では第9条がらみでも同じような英断をと言われる。それが恐くて最高裁は腰が引ける。その分だけ影が薄くなる。最高裁判事の信任投票にしたって、×を付けなければ〇とみなすなんて、自分たちの地位をそんなに軽いものと思っているのですかと判事たちに問いただしたいくらいだ。

 憲法も結局はただの文言にすぎない。この島々に住む人たちがこれに沿って国を運営しようと思わなければ、空手形でしかない。第9条をアメリカは与え、アメリカは奪った。これを逆手に取れば、この第9条こそが日本がアメリカから本当に独立する根拠になる。
 こんなことを言うと、まるでナショナリストみたいだけれど、ぼくは国というものの力は弱い方がいいと思っている。最小限のサービスをしてくれればいい。そのための憲法ではないだろうか。普通の人たちが「憲法なんて知らないよ」と言って安心していられる社会がいちばん。そこに行き着くために、まずは知らなければならない。

 繰り返すようだが、今の憲法、なかなかいいのだ。
 たとえば第24条。
 「結婚は女性と男性が一緒になると自分たちで決めるところから生まれる関係、夫と妻が互いに同じ資格で参加して、二人の協力のもとに続けられる関係である。
 結婚や家族に関わるさまざまなことがら、つまり誰を結婚相手に選ぶかとか、財産のこと、相続、住む場所の選択、離婚のことなどについて、人間一人一人を大事にし、男と女は基本的に平等だということを踏まえて、法律を制定しなくてはならない」

 第9条に話を戻せば、「国の間の争いを武力による脅しや武力攻撃によって解決することは認めない」のに、どうして対イラク戦争にここまで荷担できるのか。
 今「憲法なんて知らないよ」と言っているのは首相と外相じゃないか。


【池澤夏樹さんの本】

『憲法なんて知らないよ―というキミのための「日本の憲法」』
単行本
発行=ホーム社 発売=集英社
4月25日発売
定価:本体1,300円+税

プロフィール

いけざわ・なつき●作家。
1945年北海道生まれ。
'88年『スティル・ライフ』で芥川賞を受賞。著書に『マシアス・ギリの失脚』『ハワイイ紀行』『カイマナヒラの家』『この世界のぜんぶ』、訳書に『Dr.ヘリオットのおかしな体験』等多数。
公式サイトは
http://www.impala.jp/



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