青春と読書
 東理夫にはじめて会ったのは、新宿ゴールデン街の〈深夜+1〉という酒場で、だった。
 82年夏だったと記憶する、日本冒険小説協会会長の内藤陳さんがはじめた〈協会公認酒場第一号〉には、冒険小説ファンや作家たちが毎夜のように集まって侃侃諤諤(かんかんがくがく)、ごったがえしていた。そんななかで、同行していた友人の田村義彦が、「カントリー・ミュージックのバンドをやっていて、ギターの名手で」と、紹介をしてくれたのだ。
 当時〈ミステリ評論家〉(内藤陳の思い出にそうある)だった東理夫は、喧騒のなかにいてしかし口数少なくシャイな人だった。なにせ当方は、英語できない、楽譜読めない、ついでに言えばダンス踊れないの3重苦〈少国民世代〉だ、ジャズやカントリー・ミュージックは聴いてはいたけれど、音楽的知識はゼロである。さりとてこの場で「冒険小説」でもあるまい。
 たまたま、73年初夏の嘉手苅林昌独演会にはじまり、74年夏の「琉球フェスティバル’74」「’75春」とつづく催しで、竹中労を助けた伊藤公一が、田村義彦も旧知だった高石ともやのコンサートをプロデュースし、当方も楽屋裏に出入りしていたので、ナントカ蛇に怖じずのたぐい、やれ何がどうのかにがこうのと口走り、内心は知らず東理夫はいろいろと懇切丁寧に教えてくれた。
 そのとき、田村義彦から、東理夫の両親はカナダ生まれの二世で……といった話は聞いていたが、彼自身は何も語らず、当方も何も聞かなかった。ただ、その後何度か電話して、いきなり英語が返ってきて当方はしどろもどろ、先方もそうで、あわてて彼を呼ぶので、やっぱり二世の家庭はちがうなと妙に感心したものだ。ただし、彼も両親のことは語らなかったし、当方も聞かなかった。
 それから幾星霜、60歳になった〈ぼく〉が、「若いアメリカ大統領が暗殺された翌年」だから1964年、30年前に飄然とアメリカを独り旅した母の足跡をたずねて、北米大陸を旅する物語、『旅の理由』を読んで、主人公〈ぼく〉を東理夫に重ねあわせ、「人に歴史あり」というけれど、こんな〈歴史〉をかかえていたのかと、あの童顔の奥にあるものの重さに粛然とした。
〈ぼく〉の両親はともにカナダ・ヴァンクーヴァー生まれの日系二世、太平洋戦争勃発前、新聞記者だった父は排日にわくカナダを離れて満州(現中国東北部)に渡る。母は、長春で〈ぼく〉を産むが結核に罹患。敗戦後日本に引揚げ、東京で一生を終わった。新聞記者だった父は日本語を読み書きできたが、読みも書きもできなかった母は、病気のせいもあって出無精で引っ込み思案だった。その人が、あの独り旅から帰ってからは、なにかと生きることに積極的になったのはなぜか?
 母が亡くなって6年、父が亡くなって2年、母の遺したもののなかにあった一枚のクリスマス・カード、「あなたがあの年に植えた梨の樹が、今年もきれいな花を咲かせました」とニューメキシコ州アルバカーキから出されたそれに心動かされて、〈ぼく〉は、30年前の母の独り旅を追体験する旅に出る。
「アメリカを好きなようにさすらう流れ者のような旅は何度も経験した。今度の旅も、自分の興味からということには変わりないが、いつもより重い、怖い、知らなくてもいいじゃないか。けれど放ってはおけない」という心の声に衝き動かされて、ニューメキシコ州アルバカーキ→カリフォルニア州サリーナス→オクラホマ州ペイン・カウンティ→テネシー州ナッシュヴィル→ニューヨーク→アリゾナ州トゥーサン→オレゴン州マンザニータ→カナダ・ブリティッシュ・コロンビア州キャッスルガーと、母が会った人びとをたずねる旅は、「自由に生きたい」という母の思いを遡って、祖国を選ぶことを迫られた〈日系移民〉の戦中史、その心情に出会う旅であり、人びとの語る母の過去をみずからのそれに交錯させて、〈ぼく〉の〈アイデンティティ〉を探す旅でもあったのだ。
〈ぼく〉は、母の独り旅を追体験することで、日系カナダ移民たちの苦難の歴史を、いやそれだけではない、ネイティヴ・アメリカンであったり、日本からの“戦争花嫁”であったり、アメリカの名も無い人びとであったりの被差別の歴史を、わがこととして体験する。
 極めて極私的な旅が、人びとの生活の年輪にふれていくことによってしだいに巨視的なそれに広がり、分厚いものになっていく。小さな流れが大きな流れとなり、ついには大海に流れ込んでいく。その大河にこそ、わが生の証しがある。旅が終わってそう思いさだめたとき、〈ぼく〉は、母がカナダから持ってきて、一度も使わないまましまっていた日本製の陶器を棄てる決意をかためる。
 このエピローグに、喧騒のなかで物静かだった実在の東理夫がくっきりと浮かんできた。そうか、あのもの静けさはシャイだからではなく、父や母と同じく“祖国”をもたぬ根無し草、デラシネであった東理夫の身のおきどころのなさだったのだ。なまじな“祖国”から逃れえないまま、わが思う祖国はいずこにありやと呟くのみの当方は、羨望の念をこらええず、60にしてしっかと根を張った“根無し草”に無性に会いたくなったのだった。
(いけがみ・たかゆき/書評家)


【東 理夫さんの本】

『旅の理由』
単行本
発行=ホーム社
発売=集英社
8月26日発売
定価:本体1,700円+税





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