青春と読書
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森まゆみ著『女三人のシベリア鉄道』
今もなお、
夢と浪漫はあるけれど、
シャワーはなしの
「シベリア鉄道」                櫻井寛


 明治から昭和の初めにかけ、与謝野晶子、宮本百合子、林芙美子という3人の女性作家が、時期こそ違いますが、揃って「シベリア鉄道」の旅に出かけました。厳しい自然のなかを走るこの過酷な旅に、なぜ彼女たちはわざわざ出かけていったのか。『女三人のシベリア鉄道』は、著者の森まゆみさん自らもシベリア鉄道に乗り、彼女たちの旅の軌跡を追いながらそれぞれの作家の内面に迫る、刺激的かつ重厚な紀行文です。今回は、森さんが旅の途中で撮った写真をご紹介しつつ、世界中の鉄道をこよなく愛する写真家・ジャーナリストの櫻井寛さんに「シベリア鉄道」の魅力、『女三人のシベリア鉄道』の読みどころを、「鉄道」という観点から綴っていただきました。

 鉄道写真家という職業柄、私はこれまで世界83ヵ国の鉄道に乗車している。世界には190以上の国があるが、こと旅客鉄道を保有する国となると120カ国に満たない。したがって83カ国乗車は過半数であり、ちょっぴり、いや大きな自慢なのである。
 そんな私が世界の名列車、例えば「オリエント急行」「氷河急行」「大陸横断鉄道」「ブルートレイン(日本のではなく南アフリカの)」などに乗車し、車内で鉄道旅行好きの客と親しくなると、必ず聞かれることがある。それは、「トランス・サイベリアン鉄道は乗ったかい?」である。そこで、「オフコース!」などと答えようものなら、「で、どうだった?」と、質問攻めにあうことは間違いない。
 インターネットの普及によって、様々なことがデスクトップ上で疑似体験できる時代になったが、「シベリア鉄道」だけは乗らない限り分からない。だからこそ「トランス・サイベリアン欽道は?」と尋ねられるし、私もまた「シベリア鉄道」の最新旅行記には常に興味津々で、森まゆみさんの『女三人のシベリア鉄道』も読み始めたら夢中になってしまった、
 さてここでくわしく説明させていただくが「シベリア鉄道」とは、ロシアの首都モスクワと、極東の港町ウラジオストクとを結ぶ全長9297kmの世界最長の鉄道である。ちなみにJR最北端の稚内駅(北海道)と、最南端の西大山駅(鹿児島県)との間はおよそ3100qなので北海道から鹿児島まで行って返ってまた行くほどの長距離というわけだ。その全長9297kmの全区間を走破するのが「ロシア号」。もちろん世界一の長距離列車である。所要時間は約150時間。車中6泊7日。来る日も来る日も列車の中、寝ても覚めても列車の中という、まさに汽車旅好きには堪えられない究極の鉄道旅行なのである。
「ロシア号」は全長が500mにも及ぶ長大編成である。なお、2等寝台のハードクラス(ロシア語でドヴョールドクラース)は2段ベッドが向かい合う定員4名の個室。1等寝台に相当するソフトクラス(ミャーフスキークラース)はツインベッドで定員2名の個室である。森さんが乗ったのはこのクラスだ。
 なお運賃は、ウラジオストク〜モスクワ間で1等寝台が片道約22万円、2等寝台は約12万円(08年現在)。ロシアにてルーブルで購入すればより安いとは思うのだが、実際、我々外国人がロシアを旅行する際には、滞在中のホテル予約、航空券、鉄道切符など事前に人手しない限りビザが降りないシステムなのである。したがって出発前に日本ですべて手配しなければならず、勝手気儘なロシア旅は事実上不可能であり、景色がいいからといってフラリ途中下車もまず無理な話である。また1週間も乗りながらシャワーがないことも驚きではある,
 それでも乗りたい「シベリア鉄道」というわけだが、私はこれまで2度乗車している。1回目は93年9月であり、2回目は04年3月だった。一方、本書の著者の森まゆみさんは、06年の8〜9月の乗車である。まず、ウラジオストクからイルクーツクまでを「ロシア号」で、続いてエカテリンブルクまでを
「バイカル号」で、そして「ウラル号」でモスグワのカザン駅に到着している。それぞれの鉄道の個性、立ち寄ったロシアの都市の雰囲気が存分に楽しめる。それゆえ森さんは本来の「シベリア鉄道」のルートではなくカザン駅経由になってしまい、そのことを気にされている様子が本文からも窺えるが大丈夫。例えば、ウラジオストク駅のプラットホームに立つ里程標には「モスクワまで9288km」と刻まれているが、実際はルート変更により9297qに増えている。さらに、「ロシア号」はモスクワ・ヤロスラブリ駅発着ながら、これまたルート変更によって肝心のヤロスラブリ駅は掠めもしないのだ。もっとも、それをロ実にもう一度、乗るのも乙なものです。
 ところで、本書の中で私がもっとも緊張した場面は、第6章のワルシャワ行き「103列車」のベラルーシ・ポーランド国境のブレスト駅に停車中バスポートを持っていかれるシーン。このとき、森さんに同行者はなく1人旅であり、パスポートがないまま列車が動き出したときの動揺は相当なものだっただろう。実は、私もブレスト駅にて列車から降ろされ、窓もない別室にて取り調べを受け、ようやく無罪放免になったものの列車の姿はもうどこにもなく、途方に暮れているとき、なんと列車が戻ってきたという泣き笑いの経験がある。
 実は、ベラルーシ国鉄は線路幅1520ミリの広軌、ポーランドは1435ミリの標準軌なので、どの列車も台車の交換のため、1〜2時間は車庫に入って作業するのである。日本では、列車をジャッキアップして台車を交換するなどありえないことだけに、森さんも私も大汗をかいた次第だが、予想もつかないことが待ち構えているのも「シベリア鉄道」の大いなる魅力といえよう。『女三人のシベリア鉄道』では、そんな鉄道旅行ならではのエピソードが充実している。ロシアで出会った人々との会話も新鮮だ。
 最後に、世界最長の「シベリア鉄道」に全線完乗された森さんに拍手を送りたい。鉄道紀行の世界では、故宮脇俊三氏の『シベリア鉄道9400キロ』がバイブルのように読み継がれているが、気がつけば、四半世紀以上も前のソ連時代の旅行記なのだ。久々のしかも女性による最新「シベリア鉄道」旅行記を大いに楽しませていただいた。さらにその上、与謝野晶子、宮本百合子、林芙美子ら先人たちの「シベリア鉄道」の足跡をも体感できた。本書によって、長距離鉄道旅行における女性の強さが証明されたといえよう。


(さくらい・かん/フォトジャーナリスト)
『女三人のシベリア鉄道』
集英社単行本
2009年4月3日発売
定価:1,890円(税込)
女三人のシベリア鉄道
女三人のシベリア鉄道
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