青春と読書
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堀田善衞著 『堀田善衞上海日記/滬上天下一九四五』
巨人誕生の過程                  小川洋子


 若い頃の私が堀田善衞に抱いていたイメージは、文学的巨人そのものであった。日本の片田舎に暮らす世間知らずな少女にとって遠い遠い未知の国であるインドやスペインヘ、堂々と足を踏み入れ、時間も文化も人種も超えて境界線を自由自在に行き来する作家。『ゴヤ』『若き日の詩人たちの肖像』『ミシェル 城館の人』等など、そのタイトルだけでじめじめと狭苦しい日本から光あふれる憧れの異国へと読者を誘い出す作家。伝統的な日本文学の流れにはおさまりきらない巨星。それが私にとっての堀田善衞だった。
 そんな堀田善衞がまだ何者にもなり得ていない二十七歳の若者として、不意に眼前に現れた。『堀田善衞上海日記』のページをめくりながら私は、巨人は生まれつきそうであったのではなく、そこにはちゃんと過程が存在するのだ、という当たり前の事実を繰り返し確認していた。いつしか二十七歳だった頃の自分と堀田青年を、恐れ多くも比べてみたりしていた。以前の堀田文学との関わりからは考えられない展開だった。その展開を私は大いに楽しんだ。古い日記に潜り込み、一人の人物の時間を遡る喜びに、心行くまで浸ることができた。
 一九四五年の三月、彼は上海に渡り、その地で敗戦を迎えた。『堀田善衞上海日記』は大学ノート三冊に残された、一九四五年八月から翌年十一月までの日記である。紅野謙介氏の解説によれば、遺族によって保管されていたノートが、二〇〇八年十月から開催される神奈川近代文学館での「堀田善衞展」に合わせ、没後十年を経て初めて公にされたということだった。
 日記の書かれた期間は一年余りと決して長くはないが、ボリュームはたっぷりとあり、あらゆる方向から読み解いてゆける可能性を秘めている。例えば終戦を迎えていよいよ混迷を深めてゆく国際都市上海の姿を、異邦人であり生活者である一若者の視点から浮かび上がらせた貴重な記録、としても読めるであろうし、また、交流した文化人、手に取った本、書き残した詩の一節から、文学者誕生の萌芽を見出すことも可能であろう。
 私が最も心惹かれたのは、物事がきちんと定まっていない混沌とした場所に取り残された青年が、いかに自分自身の内面と向き合ってゆくか、という青春文学の王道とも言えるテーマが日記の中心に流れている点だった。一応、中国国民党宣伝部に徴用されてはいるが仕事らしい仕事はなく、青年はただひたすら街を歩く。酒を飲み、映画館に入り、点心や炒飯や揚子江のマグロを食べる。猫のノミを取り、将棋を指し、お金に困って借金をする。そして本を読む。自らを"戦争畸型児"と称し、何の保障もない、恐ろしく緊張した退屈の中で、下劣なことがしたい、自分を破りたいという衝動に駆られる。しかしその口調はあくまでも冷静だ。
 こうした中で殊更に大きな比重を占めているのは、やはりNであろう。Nは後に堀田夫人となる女性であるが、上海で知り合った当時はすでに結婚しており、彼もまた日本に妻子を残している身だった。上海到着直後、心の準備も何もないままにNと関係を結び、そこから順番を逆回しするような形で徐々に愛情が芽生えてゆき、とうとうにっちもさっちも行かなくなった、という経過をたどったらしいことが日記の端々からうかがえる。ほどなく四月、Nは夫と共に帰国してしまう。出発の間際、荷物を運び出す慌しい中で二人はこっそり甘美な別れの一瞬を過ごす。以降、Nの不在により彼女の気配はいっそう色濃くなってゆく。
 彼はNの寝巻きを着てみたりする。蚊帳の中で一緒に過ごした記憶をよみがえらせる。Nとの接吻と頬や髪への愛撫を思う。Nの着物を燃やし、つっかい棒が外れたような気分に陥る。容赦なく不意に飛び込んできたこの恋愛が、抜き差しならないものになるであろう予感がそこかしこにあふれている。
 彼の苦悩がNへ向かう方向にのみ研ぎ澄まされてゆき、妻子との関係に向かわない点がまた尚更、彼らの恋愛の濃密さを表しているように思う。神奈川県の二宮にいるという妻子への言及は驚くほど少ない。幾度となくよみがえるNとの関わりと、無言の中に沈む妻子。この対比は一見アンバランスなようで、実は対等の存在感を持っている気がしてならない。語られないものが、書き記された言葉の底から透けて見えるという凄まじさが、この日記には潜んでいる。
 やがて彼にも帰国の時が近づいてくる。世界を見渡す彼の目は見事に澄んでいる。歴史のない国アメリカが進出することを憂い、日本人において敗戦は克服すべき精神の問題だと位置づける。原色への思いを語り、上海での経験を実らせるための次なる段階として、ヨーロッパを見裾える。文学的巨人の誕生はもうすぐそこまで来ているのである。

(おがわ・ようこ/作家)
『堀田善衞上海日記/滬上天下一九四五』
集英社単行本
2008年11月5日発売
定価:2,415円(税込)
堀田善衞上海日記
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