安芸と抄子 川端幹三
久木と凛子、伊織と霞、秋葉と霧子、安芸と抄子。渡辺淳一さんの代表的な名作の主人公は、男の姓と女性の名前の組合せで語られる。
『うたかた』は「安芸と抄子」だが、この長篇は新聞連載小説の最高峰のひとつの型と思う。現実の季節の移りかわりと物語の進行とは連動していて、安芸と抄子の恋愛行脚の背景を実に涼やかに体感できる。やわらかな光と心地よい水気をとらえる文章は、見事なほどのびやか。
小説の契機をつくる「挨拶」には、色気がある.作者の耳は素清しい。読者は実生活に照らして、場面を立てて読む。興趣をかきたてられて、次を待つ。
――小説の冒頭近く、新聞を読んで驚いた。旅館「蓬莱」の走り湯に、抄子は安芸と一緒に入らない、のだ。先に入って相模湾の夜の海を眺めて時つ安芸に、沙子は板戸の外から、「あなたがお休みになってから、一人できます」と言って去る。ありきたりの小説なら、早々と二人に至福を味わわせてしまう。抄子は、そうはしなかった。
女主人公の性格、作品の志向するもの、作者の希求する高さなど含みをもたせた絶好の実景の妻さ。作者の体験がリアルに率直に書きとめられている面白さ。抄子この言葉は出色でした。
『うたかた』は読売新聞朝刊に平成元年二月ニ十八日からほぼ一年間、連載された。その直前の一月七日に昭和天皇が崩御される。渡辺さんは五十五歳だった。当時はまだケイタイは普及しておらず、渡辺さんの大きな躰にいつも(と思うほど電話がかかる)小さなケイタイを耳に当てている図を見るようになるのは、もう少しのちのこと。『失楽園』につながるわけです。
講談社版の単行本『うたかた』上下巻は、翌平成二年七月に刊行され、九十万部を超えた。担当した私は渡辺さんから記念の時計をいただいた。名付けてうたかた時計は、今も健在です。
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『うたかた』 集英社文庫 2009年3月9日発売 定価:900円(税込) |
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