青春と読書
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流氷への旅
カシミアの手触りに似た純愛小説                 南美希子

 渡辺淳一先生とは、トークショーの聞き手という立場で、何度か仕事を御一緒させて頂いたことがある。印象深かったのは、"男と女の間には永遠に埋めることの出来ない溝が横たわっているが、自分は作家としてそのテーマを終生追い求めてゆきたい"とそのたびに語られていたことだ。男と女を隔てる深くて暗い河の存在は、折にふれ痛感するのだが、その正体となると私のような凡人には上手く言い表わせない。ところが、恋愛のマエストロである先生はかく語るのだ。「虚無と熱情」であると。つまり、男の虚無と女の熱情の相剋が愛の本質であるというのだ。『愛の流刑地』から一節を引用すれば、――男の虚無の原点である射精に対して、女のセックスは形の上でこそ受け身だが、そこから様々なものを得てふくらんでゆく――とある。なるほど……。
 30年近く前に上梓されたこの『流氷への旅』を読んで真っ先に思い浮かべたのは、この「虚無と熱情」という言葉だった。三角関係にまつわる過去の不幸な事件をきっかけに、男はその虚無感を氷に閉ざされたさい果ての地で一層深め、氷結させてゆく。そんな男に魅かれる女は、お嬢さん育ちの怖いもの知らずに裏打ちされた熱情で挑んでゆく。男の虚無が、女の熱情に陵駕されるという結末を迎える点では、この小説は渡辺作品の中でも稀有な存在なのかもしれない。
 偶然だが、私は昨年の夏、作品の舞台である紋別を訪れ、流氷が接岸するという海にも案内された。その時は真冬のオホーツクの姿など想像さえつかなかったが、「見渡すかぎり、灰色の空と、白い氷原と、亀裂から顔を出した海だけ」という一文に触れ思わずデジャヴを覚えた。息をのむような自然描写、ハラハラさせられるような女主人公の情熱的な行動、そして、黙示のように横たわる暗い事件。ページを繰る手が止まらない。久しぶりに上質のカシミアの手触りに似た純愛小説に出逢えた気がする。


(みなみ・みきこ/エッセイスト)
『流氷への旅』
集英社文庫
2009年1月20日発売
定価:800円(税込)
流氷への旅
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