青春と読書
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 タイムトラベルものは日本SFのお家芸だが、数多ある名作群の中でもダントツのベストワンが広瀬正の『マイナス・ゼロ』。二〇〇六年に早川書房が実施し た国内SFオールタイムベスト投票では第四位。同じ年に《月刊PLAYBOY》が選んだ過去百年の「日本ミステリー・ベスト100」でも堂々の第三位につ けている。
 主人公の浜田俊夫は家電メーカーの技術部長。ひょんなことからタイム・マシンに搭乗し、一九三二年(昭和七年)の世界を訪れるが、アクシデントで帰還不能に。持ち前の楽天的な性格と未来の知識を活用し、俊夫は三十一年前の古き良き東京で生活しはじめる……。
 精緻に張り巡らされた伏線がきれいに回収されていく後半は、最良の本格ミステリーを思わせる知的興奮に満ちている。だが、『マイナス・ゼロ』がいつまでも愛される最大の理由は、綿密な時代考証と限りない愛情をもって描かれる昭和初年のディテールにある。そのみずみずしい描写と練達の語りは、広瀬正の全作 品に共通する。
 広瀬正は一九二四年、東京生まれ。日大工学部卒業後、ジャズパンドを率いて、テナーサックス奏者として活躍するが、八年で解散。その後、作家に転身し、SF同人誌《宇宙塵》に連載した処女長編『マイナス・ゼロ』が単行本化されて、七〇年にデビュー。翌年の『ツィス』『エロス』とともに三作連続で直木賞候補となる。だが、七二年三月、心臓発作により四十七歳の若さで急逝。死後、『T型フォード殺人事件』『鏡の国のアリス』が刊行され、残された短編群は七三年、『タイムマシンのつくり方』にまとめられた。
 そのすべてを網羅した『広瀬正・小説全集』の集英社文庫版が十一年ぶりに復刊される。著者の死から数えて三十六年。浜田俊夫が遡った歳月以上の時間が経過したわけだが、広瀬正の小説は色褪せるどころか、ますます輝きを増している。本稿のためにちょっと手にとったら止まらなくなり、『マイナス・ゼロ』『エロス』『T型フォード』と再読し、いまは三度目になる『ツィス』を読んでいる。十年に一回は全作品を読み返したい。広瀬正はそういう希有な作家なのである。

(おおもり・のぞみ/評論家)
『広瀬正・小説全集・1 マイナス・ゼロ』
集英社文庫
2008年7月18日発売
定価:800円(税込)
マイナス・ゼロ
746324-8
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