青春と読書
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植島啓司/鈴木理策著 『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』
〈移動〉する神                       鷲田清一

 植島啓司さんもわたしもまだうら若い大学講師だったころ、宗教学界ついて植島さんがわたしに語った言葉は、衝撃的なものだった。「宗教の本質は〈耽溺〉にあります。その点で、宗教は賭博や変態、そして薬物嗜好と通じています」。
 もう三十年くらいになろうか。その植島さんが深く耽ってきたのが、ネパールとこの熊野だ。そびえ立つ奇っ怪な岩々と烈しくうねる山の稜線、それらの片隅にちょこっちょこっと遺されたさまざまの意味不明な印、そして森の空き地にひっそりと佇む神社群。ひとの知覚を凌駕する熊野の荒ぶる自然と、かならず断ち切られる生に怯えつつ、円い小石や藁紐や丸太といった貧弱な物のなかに過剰なまでに想像力を充填してきたひとびとの、たどり着きようのないほどに遠い記憶。その微かな記憶をまるで人体の血脈を探るかのようにたどる椋鳥さんは、この大自然の裂け目に身を挿し込み、懐に身を潜らせたひとびとの野性の想像力と、淫らなほどにもつれあいたがっている。
 固定された銃台からは射抜きようのない、たえず〈移動〉する神。その気配の跡をひたすら追いつづける植島さんの、待望久しかったこの熊野論を読んで、ああ、このひとは、宗教儀礼にもっとも高電圧で現われている人類の想像力の冒険に心底感電してきたのだと、あらためて思い知る。意識の深層を刺激する想像力のこの過剰に、植島さんは〈文化〉とあっさり言われるいとなみの深い誘感性と空恐ろしさとを見てきたのだとおもう。
 この野性的な知性に、写真という、それとはまったく異なるメディアで迫奏するのが鈴木理策さんだ。ひとの視覚の地平をぐさっと抉る「荘厳」な写真群。「荘厳」は「壮麗」とちがって、野性のまなざし、野性の感受性にしかふれてこないと、これまた思い知る。植島さんの視線ともつれあうその地点を、かれが即座に察知したのはなぜか。気になるところである。

(わしだ・きよかず/哲学者)
『<ヴィジュアル版>世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』
集英社新書
2009年4月17日発売
定価:1,260円(税込)
<ヴィジュアル版>世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く
<ヴィジュアル版>世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く
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