青春と読書
 最初に断っておくが、作家という生き物はたいてい笑い話がうまい。言葉で商売をしているのだから当然と言えば当然なのだが、特にエンタメ系の作家には話術の巧みな者が多く、その手の人種が集まるクラブに行くと、笑いの輪の中心で君臨する大御所作家たちをよく見かける。そのためだけにネタを仕込んでくる場合もあるようだ。ウケよう精神がなければエンタメ作家としては大成しないとはいえ、そこまで行くとある種の業病だという感慨を禁じ得ない。
 が、ではそのお笑い精神が作品にも敷衍され、爆笑小説が百花撩乱の様相を呈しているかと言えば、そんな事実は全然ない。て言うか、爆笑小説なるジャンルがそもそも存在しない。代わりに「著者初のユーモア篇」みたいなヌルいコピーをたまに目にするが、その手の書籍が飛び抜けた売上げを記録した例は皆無と言っていい。「ユーモア」とか「思わずニヤリとさせられる」とかいうフレーズ自体がサブく、市場にまったくアピールしなくなっている現実を、出版に携わる人間はそろそろ真摯に受け止める必要がある。
 由来、小説は人を考えさせたり、泣かせたりする分野では一定の評価を得ているが、笑いに関しては他のメディアに遅れを取ってきた感がある。小説家にとって笑いは鬼門なのだ。逆に泣ける小説は安全パイ的に数多存在するが、これは同じ情動であっても、「笑い」と「泣き」が引き起こされる構造に根本的な差異があるからだろう。
 たとえばテレビをつけた途端、脂がのりきっている頃の志村けんが「だっふんだ」と言ったとする。彼がなぜ、どのような経緯で「だっふんだ」と口にしたのかわからずとも、大抵の人は無条件に頬を緩め、場合によっては吹き出しもしよう。対して『冬のソナタ』なんか見たこともないという人が、不意に最終回のラストシーンに出くわしたとしたらどうか。ペ・ヨンジュンとチェ・ジウが再会するシーンを食い入るように凝視し、滂沱の涙を流す妻を目前にして、すかさず自分も泣けるという御仁がいるだろうか?
 答は否だ。泣くには、そこに至るまでの事前情報が不可欠であり、またパーソナルな没入感が必要とされる。活字による情報の積み重ねによって成り立ち、読書という個人的な行為でひもとかれる小説が、「泣き」の分野に強い所以だ。しかし即興性に拠るところが大きく、公共性が高い「笑い」となると、小説は途端に分が悪くなる。志村の頭上に落ちてくるタライの形状、製造年、落下速度を記述することはできても、タライが落ちてくるライブな空気感、直撃を受けた志村の表情を企図した通りに伝えるのは至難の業だ。仮にそれができたとしても、ナンセンス・ギャグを解体し、時間をかけて文字で追体験する行為になんの意味があろう。
 必然、小説における笑いは論理的思考を働かせて感得するユーモア、すなわちIQの高い笑いにならざるを得なくなり、エスプリとかいう鼻持ちならない文言が使われるに至って、市場との乖離が決定的になる。笑うのに頭なんか使いたくない、テレビかマンガを見るよという話なのだが、ここにその逆風に挑み、笑える小説を模索し続けている男がいる。『怪笑小説』『毒笑小説』に続き、今回『黒笑小説』を上梓した東野圭吾がそれだ。
 ネットでは絵文字が飛び交い、小説でも活字のフォントを変えて視覚的に笑いを取る掟破りが横行する昨今、彼はあくまで正当な文芸の手法を遵守し、活字の連なりのみで笑いを喚起しようとする。その目指すものはユーモアでもギャグでもない、「お笑い」としか表現しようのない何物かであった。
 関西人の血か、なにかを始めたら極めねばいられない常人離れした集中力のなせる業か。いずれにせよ、3冊にわたってその道を追求してきた東野は、小説においても「お笑い」が成立することを実証した。本書に収録された『巨乳妄想症候群』や、『怪笑小説』所収の『超たぬき理論』が示す通り、東野はナンセンスな対象を精確に、客観的に描写することで、こんなアホ話を真面目に描いているオレを笑え! と胸襟を全開にしてみせたのだ。
 それは、つきあわされてしまった読者自身の自嘲と相乗して、最終的には麻薬的なお笑い空間を生起せしめる。アホをやって笑いを取る、なんと基本に忠実であることか。東野は小説の基本を守り、芸人の基本を守ることで、お笑い小説という未知のフロンティアに最初の鍬を入れたのだった。端正な顔と、端正な筆致で知られるミステリー作家という看板を、思いっきり危機にさらしつつ。
 しかもそれを3冊分も続けているという行為そのものが、すでにお笑いであるという巨大なカラクリ――。東野圭吾、恐るべし。これからお笑いフロンティアに乗り出す予定の筆者としては、当分その背中から目が離せそうにない。
 なぜかって? ヤバくなったら速攻で撤退するために決まってんでしょ。
(ふくい・はるとし/作家)


【東野圭吾さんの本】

『黒笑小説』
単行本
集英社刊
4月26日発売
定価:1,680円(税込)


 



back

(c)shueisha inc. all rights reserved.