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新連載/本文を読む

『問いはかくれている』
永井玲衣
①推し

[新連載]

①推し


illustration●塩川いづみ

「哲学的には、どうなんですか?」

 みんながわたしを見ている。そのまなざしの多さで「わたしか」と我に返る。すっかり他人事ひとごとだったのだ。
 そうですね、と何も考えていないままに、とりあえずつぶやく。みんなは期待している。わたしは沈黙を埋めるために、意味ありげに微笑ほほえむ。数秒経過するが、特に何も言うことはない。「哲学的」って一体何のことを言うのだろうか、と思う。

「哲学的って、どういうことでしょうか?」

 わからないので聞く。おお、と相手が息を吐いて「なるほど」と感心したように言う。深い質問をしたと思われてしまった。さすが哲学者、とでも言うような表情で何度かうなずいている。いや、本当にわからないから聞いているのだった。

「その質問自体がまさに、哲学的ですね」

 一体何の会話なのだ。こんなやりとりをするくらいだったら、クラブ音楽でもかけてみんなで踊ったほうがまだましだ。そのほうがずっとわかりあえるだろう。

 ごくまれに、テレビでニュースのコメンテーターとして哲学者が座っていることがあるが、多くの場合司会者に「哲学的にはどうでしょう」と雑にふられていて、かわいそうである。彼らはわたしとは違い、きちんとその場に集中しているので、求められたことを、おそるべき言語能力とクリティカルな切り口で応えている。だがそれが本当に「哲学的」なのかは誰もわからない。ただそのひとの観点を提示しただけなのではないか、とも思う。

「哲学的には、どうなんですか?」

 この質問が投げかけられるときは決まって、話が大きくなりすぎたときだ。議論が交わされるうちに、だんだんと風船が膨らむようにしてテーマがとりとめもなく広がってしまう。風船は巨大に膨れ上がり、わたしたちの手を離れて浮き上がる。「自由とは」「メディアのあり方」「愛」など、誰の手にも負えない大きさになったとき、誰かが思い出したようにわたしに尋ねる。しかしわたしもまた、ぼんやりした顔で上昇する風船を眺めている群れのひとりであり、どんなに短い腕を伸ばしたとしても、それを捕まえることなどできないのだった。

「幸せって、哲学的にはどういうことなんでしょうか」

 またなのだ。今日も聞かれてしまった。話がそれだけ茫漠ぼうばくとしてしまったのだ。まさかループしているのか。不安になってくる。それを見ているみんなはもっと不安そうにしている。
 たとえばここで過去の偉大な哲学者の名前を出して、そのひとが何を論じているかについて話すことはできる。だがそれが一体何だというのだろうか。わたしの専門でもない紀元前のギリシャ人の考えを、不完全なままにわたしが説明して、何ができたことになるのだろうか。
「哲学」というのは厄介な言葉だ。哲学、それは学問でありながら営みである。行為である。世界の不可解さに立ち止まり、考えること、もしくは思わず考えてしまうこと、それが哲学である。「哲学的」という立場が、確固たるものとして存在するわけではないのだ。
 だから、哲学的なのはむしろ「幸せってどういうことなんでしょうか」という問いそれ自体である。わたしに尋ねる前に、哲学はもうはじまっている。

「なかなかむずかしいですよね。はい、それでは次のテーマにうつりましょう」

 うつってしまったのだ。風船はもうはるか遠くに飛び去ってしまったと判断された。本当はまだ、これからなのかもしれないのに。時間も迫っているのだろう。なぜこんなにわたしたちには時間がないのだろうか。
 いや、そもそも問題はそこではないのかもしれない。つまり、浮かび上がってしまう風船を誰も回収できないことではない。不可能だと判断されてしまったことではない。そうではなく、誰ひとり、本当はそんなことを問いたいとは思っていないということが問題なのではないか。
 あの場で、「幸せとは何か」ということを本当にわたしたちは問いたかったのだろうか? わたしたちは、何を問いたいと思っているのだろうか?

 哲学対話という場をひらいている。ひらくひとや現場によって、さまざまな定義とあり方があり、それ自体が魅力となっている営みであると思う。哲学はひとりではむずかしい。他者の力が必要である。だから、対話を通して哲学をする。水の中に潜るようにして、わたしたちは考える。それは、うつくしく、苦しく、もがくような時間である。
 哲学対話は問いからはじまる。わたしは、その場に集ったひとたちから、問いを出してもらうことが好きだ。本当に好きだ。彼らの切り口、世界に対する姿勢、どうしようもないままならなさ、そうしたものが問いにはあらわれる。
 だが、問いを出すには時間がかかる。問いは育てるものだ。それも、他者の力によって、だんだんと見えてくるようなおぼろげなものだ。すぐに手に入るような代物ではない。

「よいリーダーとは何かについて考えたいです」

 小綺麗こぎれいなオフィスに集まったひとびとの中のひとりが言った。アイロンのかけられたシャツに、ブルーのぴしっとしたジャケットを身に着けている。あまりにもぴったりで、よろいのようにも見える。がっしりとした手首には、ぶつかると痛そうな腕時計がにぶく光っている。手をあげるたびに、ちゃり、と音がして、このひとの身からだ体には金属が巻き付いているのだということを意識させられる。あなたがそう言ったとき、他のひとびとも、うんうんと頷いていた。そう、いい問いだね、とでもいうように。
 わたしは疑ってしまう。本当に、あなたはその問いを問いたいと思っているのだろうか? 本当に、わたしたちはその問いを考えたいと思っているのだろうか? その問いの背後に、別の問いが、じっと息をひそめてはいないだろうか?

 こんなこともある。別の哲学対話の場で、わたしたちは誰かが出してくれた「はたらくとは何か」という問いについて考えていた。小さな輪だったが、誰もが真剣に、息をんで参加していた。誰かが言葉を絞り出すたびに、わたしたちはそれを千切るようにして聞いた。目線は互いの足元に落ちていて、わたしたちは目を合わせなかったが、たしかにあの場に共にいることをしていたのだった。
 誰もがわかっていた。そこでは単純に「はたらく」ことの定義について考えられているわけではないと。「はたらく」という言葉が引き連れる、それぞれの経験、切実さ、言葉にまとまらない問いが、語られていた。だがわたしたちはそれをあえて明言しようとはしなかった。
 問いは明るみには出されなかった。だが、その問いを暗闇から引きずり出してしまうと、何かが崩れてしまいそうになる緊張感がそこにはあった。「はたらくとは何か」という仮そめの問いをもとにして、わたしたちは自分自身のことについて話していた。否応いやおうなく背負しよい込んでいる問いについて考えていた。問いをかくしたままにする、共犯関係がそこにはあった。だが、だからこそわたしたちはあの場にいられたのだった。

 問いはかくれている。それにわたしたちは気がついていないこともあれば、気がついていないふりをすることもある。問いは好奇心だけでなく、切実さをともなうことがほとんどだ。取り扱いがむずかしい。見つけ出したとしても、単に事実確認が済めば解消するようなものではないからこそ、向き合うことをやめたくなるような気になることもある。それでもやっぱり、そんな問いについて、誰かとまっとうに苦しみたいと思える日もある。
 問いはどこにかくれているのだろうか? あらゆるところにかくれている。「苦痛」にかくれている。月並みだとされるような「悩み」にかくれている。治療対象だとされる「病」にもかくれている。こぼれる「死にたい」という言葉にも、「生まれてきたことは悪なのだろうか」という哲学的な問いがかくれていることがある。
 ぼろぼろに使いまわされ、手垢てあかのついた言葉にも、問いはかくれている。流行はやりとして消費される言葉を忌み嫌うひとも多い。わたしもそうだ。「最近こんな言葉が流行っているらしいよね」と訳知り顔であきれたくなる。だが、それだけ使われるということは、そこにはまだ形にならない、何かがひそんでいる。無自覚に当たり前のように使われている言葉たちには、まだ吟味されていないものがある。そこには決して馬鹿にできない、切実な問いがかくれているのだ。

「推し」。たとえば、推しはどうだろうか。
 推しという言葉は、わたしたちの社会に突然あらわれた。もともとは特定のアイドルグループ内で応援したいメンバーを指す言葉だったようだが、いまでは幅広く使われているように思われる。

推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる。(宇佐見りん『推し、燃ゆ』河出書房新社、二〇二〇年、九ページ)

 単なる「好き」を超えた何かが、推しという言葉の奥にはある。生にかかる重力から、わずかに身を引き剝がすことができるようなひとときが、推しにはある。しかしそれは諸刃もろはつるぎである。推しが自らの背骨になってしまうと、それが失われたとき、わたしたちは簡単に生きるということから滑り落ちてしまう。

やめてくれ、あたしから背骨を、奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。冷や汗のような涙が流れていた。[……]推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった。(前掲書、一一二ページ)

 恋愛でもない、崇拝でもない、応援でもない。それはたしかに「推す」という言葉でしか表現できない感情。流行語大賞の候補に連なる消費の言葉である「推し」には、痛切な生々しさがぶらさがっている。
 もちろん「推す」ことにはさまざまなグラデーションがあり、推し方にも多数の態度がある。推しができたことで自分自身を好きになることができた、と喜ぶ友人もいる。だがここでは「推し」の厳密な定義や、その分析を試みることはしない。あまりそこには関心がない。それよりも「推し」「推す」という言葉が、かくしもっている哲学的な問いを見つけたいと思う。

 それはたとえば「他者によって生きる意味が生じるとは、どのようなことなのか」といった問いである。それも、一方向的な関係性によって。すなわち、自分の子どもであるとか、パートナーであるとか、友人といった関係よりも、より距離のある存在である。
 それに、一方向的に他者を愛する行為は、痛みをともなう。推すことには、きわめて奇妙な主体と客体の関係性が混在したかたちで存在している。推しを愛し、夢中になって、時に崇拝さえしている場合は「わたし」は溶解している感覚を持つ。推しという絶対的な存在に従属しているような経験。しかし実際は、相手を「偶像」としてまなざしてもいる。推しに向けられるまなざしは、相手を硬直化させる。ひとつの意味づけ、価値づけをされた対象物として見つめられる。まなざしを向ける側はまぎれもない「主体」である。推しはもはや客体であり、それが市場に乗せられるのならば、消費物であり、コンテンツとなる。そうした主体が集団化し「ファン」を形作るとき、推したちはファンに意味づけられ、価値づけられる。もちろん励みにしてもらえることもあるが、彼らの苦しみの要因もまた、まさにファンからのまなざしそのものとなる。
 だからこそ、ファンはジレンマを抱えることになるだろう。推しを愛することは、推し自身の喜びであり、苦しみである。そして常にその愛は、推しを客体とみなし、消費する暴力的なまなざしへと転じうる危険性をはらんでいる。
 推すことは本当にむずかしい。この資本主義経済では、推すためには尊重と消費という、相反するものが生じてしまう。他者関係というものの、究極的な課題ですらある。「推し」はやはり、哲学的な問いを引き連れてくるのだ。
 推すという行為は、ひとつの他者関係である。これはたしかに、身をささげるような相手への愛である。だが、わたしの背骨になってしまうような、わたしの生きる意味でもある。ファンの中には、そんな自分という異物を推しに認知されたくないと願うひとも多い。交わりを拒絶する、オルタナティブな愛のかたちだ。気持ちの悪い自分を、純粋な推しの活動に反映したくないと思う。しかし同時に、そんな自分を救済してほしいとも思う。つくづく難儀な愛である。
 どんなに推しのことを追いかけたとしても、相手のことを本当に知ることなどできない。それは一方向的だからだ。その不可能性が、わたしたちを苦しめたり、生きさせたりする。
 だが、問いはまた新たな問いを引き連れてくる。それは「推すという行為は、親しい他者を愛することと、何が違うのか」という問いである。どんなに相手のことを理解しようとしたとしても、わたしたちは互いにわかりあうということはできない。他者関係の根源的な不可能性は、解消されることはない。
 流行り言葉としての「推し」。そこには重さがある。なぜなら、そこには人間がいるからだ。ままならなさを抱え、もがいている人間がいるからだ。
 問いはバラバラのわたしたちをつなぐ。推しがいないあなたも、かけがえのない推しに支えられているあなたも、問いのもとでは集うことができる。あなただけの苦しみが、わたしたちの問いになる。それこそが「哲学」の希望である。

永井玲衣

ながい・れい
1991年東京都生まれ。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を行っている。さまざまな媒体で哲学エッセイの執筆を手がける。newQメンバー、D2021運営。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。

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