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『セカンドキャリア ――引退競走馬をめぐる旅』
片野ゆか
第3回 競走馬ラッキーハンターの日々

[連載]

第3回 競走馬ラッキーハンターの日々

 ラッキーハンターが午前中のホースセラピーの仕事を終えたと聞いて、私と林達郎はやしたつろうさんは廐舎きゆうしやへ移動することにした。
 通路を進んでいくと、はるか前方で栗毛の馬が「あ!」という感じでこちらに注目した。「あの人は、もしかして、もしかするとぉ……」と言わんばかりに、目の輝きがみるみる増しているのが遠目にも伝わってきた。
「ラッキー、元気そうだな!」
 林さんが呼びかけると、ラッキーハンターは「やっぱり、そうだー!」と言わんばかりに馬房からグイと顔を突き出し、さらに確認するように林さんの手や体に柔らかな鼻先をピタピタとくっつけた。元競走馬は、現役時代の調教担当者との久しぶりの再会をあきらかに喜んでいた。
「ラッキー、嬉しそう。林さんが本当に好きなんですね」
「そうだったらいいですけど、目当てはコレじゃないかな」
 林さんが笑いながらお土産のニンジンを取り出すと、ラッキーハンターは前肢で地面をカシカシとく仕草をした。これは“前搔き”といって、要求をあらわすボディランゲージのひとつだ。さすが人気ナンバーワンのオヤツだけのことはある。口にするときは三分の一くらいずつ、パリポリと丹念に嚙み砕いていて、大好物の味を丁寧に楽しんでいた。
 おやつタイムが終わると、林さんは馬房ギリギリに背を向けて立ち、ラッキーハンターの頭部を自分の右肩に乗せるようにして両腕で優しく抱きしめた。おそらくこの体勢は馬にとって“抱っこ”のようなものなのだろう、ラッキーハンターも至福のときを味わうように静かに力を抜いている。競馬業界では人馬一体という言葉がよく使われるが、それは騎手と競走馬に限定したものではないのかもしれない――美しい光景に、私は静かな感動を覚えていた。


中央競馬で競走馬として頑張っていたラッキーハンター 提供:TCC Japan

 さて、ここからはラッキーハンターの競走馬時代の話だ。
 やや意外に感じたのは、新馬時代から競走馬として大きな注目と期待を集めていたことだった。デビューを控えた前髪パッツンの男の子は、生まれ持った大らかさと人懐っこさを発揮して、複数の廐舎スタッフから「めっちゃカワイイ新馬」と認定されていたことは前回紹介したが、実は「馬っぷりがいい」「走りそう」「良い馬」など競走馬としても高評価を得ていたのだ。
 ラッキーハンターは二〇一一年四月に北海道日高郡新ひだか町の牧場で生まれた。母親の名前はユメノラッキー、父親のハーツクライは二〇〇五年の有馬記念で優勝して、日本調教馬で唯一ディープインパクトに勝った競走馬として名高い馬だという。ディープインパクト――競馬にうとい私でさえ知っているのだから、その存在は競馬史上の怪物といっても大袈裟ではない。そんな大スターに勝利した経歴を持つ競走馬の血を引く新馬ともなれば、なるほど期待が高まるのも頷ける。
 記念すべきデビューは、二〇一三年七月二十八日だった。担当の林さんの愛情とトレーニング技術によって、四百八十キロ近い堂々とした馬体に仕上がったラッキーハンターは、函館はこだて競馬の第五レースに出場した。
 必ず、無事に戻ってきますように……! 競走馬をレースに送り出す人々は、まずはそう祈るという。中央競馬でフルゲートと呼ばれる最大出走頭数は、十六頭から十八頭が多く、こんなにたくさんの馬が進路を奪い合いながら全力疾走するなんて危険極まりない。しかもそこで一着になるなんて、もはや神業かみわざレベルではないか。今さらながら、競馬の世界の厳しさに気が遠くなるばかりだった。
 ラッキーハンターはデビューしたものの、なかなか勝利をつかむことができなかった。「競馬界では、馬の腰から後肢にかけてを“トモ”と呼ぶのですが、ラッキーはトモが弱かったんです。そのためスタートダッシュができず、いつも出遅れてしまっていました」
 当時の状況を分析する林さんは、さらにラッキーハンターが暑さに弱かったことも指摘している。ほかのエリアにくらべたら北海道の夏は格段に過ごしやすいが、それでも気温の上昇とともにラッキーハンターの目の周りは脱毛したという。
「これは夏場、馬に時々見られる症状です。皮膚病ではなく、おそらく体内環境のバランスが乱れてこうなるのだと思います。馬の地肌は黒いので、脱毛するとまるでパンダのような顔になるんです。なるべく熱を放出できるように睾丸が下がってくるなど、夏バテの兆候も出ていました」
 林さんは、ミスト扇風機を購入するなど、ラッキーハンターがなるべく快適に過ごせるように飼育環境を整えた。しかし、ラッキーハンターには身体的なもの以上に大きな課題があった。大らかでピリピリしたところがないのが持ち味だが、あきらかにレース向きの性格ではなかったのだ。
 二〇一三年七月から十二月まで、ラッキーハンターはデビュー戦を含む六回のレースに出場したが未勝利に終わった。競馬界では、新年と同時に年齢を重ねる習慣があり、二〇一四年一月からは三歳馬として出走したが、結果は振るわなかった。
 この世界には、誰もあらがえない厳しいルールがある。デビューした馬が三歳の夏までに一度も勝利しなかった場合、その後も走り続けるには格上のレースに挑戦するしかない、というものだ。これまで出ていたクラスで勝利できない馬が、そこで賞金圏内に入ることはかなり難しい。なかには障害馬としてトレーニングし直して改めてデビューする馬もいるが、多くの馬は引退を余儀なくされるのだ。
 これからラッキーはどうなるのか。林さんは、今や自分にとって特別な存在になっている競走馬の可能性を信じる一方で、調教のプロとしては楽観視できないことも感じていた。
 まずは一勝してほしい! レースの朝、林さんは気合いを入れて廐舎へ向かった。多くの競走馬は、周りの状況からレース開催を察知してピリピリ、イライラと殺気立っていることもめずらしくない。だが馬房をのぞくと、ラッキーハンターは横倒しになってスヤスヤと寝息を立てていた。
「ラッキー、おはよう! 今日はレースだよ」
 林さんの声で目を覚ましたラッキーハンターは、ホワーンとした顔で応えた。
 ああ、そうかー、レースなんだぁ~。
 競走馬らしからぬなごやかな反応に、林さんは毎度心奪われてしまうのだが、しかし、今後を考えると複雑な心境にならざるを得ないのだった。

 あの馬たちは、今後どこへ行くのだろう――レースの先頭を走る馬よりも、その後方にずらりと並ぶ馬たちのことが無性に気になるようになったのは、林さんが北海道の生産牧場で働いているときのことだった。
 競馬に興味を持つようになったのは中学生時代で、それ以来、馬の世界に憧れ続け、酪農学園大学短期大学部時代は、長期連休を利用して自分でアポイントを取った牧場で作業実習をした。卒業後は「馬のことをきちんと勉強したい」と考え、公益社団法人日本軽種馬協会が主催する生産育成技術者研修生として、馬の手入れや廐舎の掃除、堆肥の扱い方、草刈り、馬術練習など、牧場の仕事に必要なスキルを身につけた。
 就職したのは、サラブレッドの子馬の飼育とトレーニングをする北海道の育成牧場だった。自分で世話をした馬のその後を調べてみると、なかには中央競馬から地方競馬へ登録変更して、引退後は乗馬クラブに移動するケースもあった。しかし、まもなくすると馬たちの情報はたいてい途絶えた。これは何を意味するのか? 真相について考えるほどに、寂しさや葛藤を抱えるようになっていった。だが林さんは、自分に何ができるのかまったくわからなかったという。
「それならあえて、競馬業界の中心を自分の目で見てみよう。そう思ったことが、今の仕事を目指すきっかけになりました」
 調教助手になるには、JRA(日本中央競馬会)が運営する規律の厳しい全寮制の競馬学校で半年間学び、卒業しなければならない。入学試験は、学科と作文、運動機能検査をパスしたら二次の騎乗試験に進み、それに合格したら最終面接を受けるという厳しい内容で競争率も高かった。一回目は一次試験まではパスしたが、騎乗試験の壁は厚かった。一念発起してトレーニングに集中した結果、二回目で合格を果たした。
 だが学校を卒業しても、すぐに就職できるわけではない。人員募集は調教師が運営する廐舎単位でおこなわれるが、採用希望者がアプローチする術すべはなく、何らかの縁をきっかけに声がかかるのを待つしかない。林さんは栗東りつとうトレーニングセンターの近くにある育成牧場でアルバイトとして働きながらチャンスを探り続け、ようやくJRAに就職したのは二年後の二〇一一年七月のことだった。
 引退競走馬支援活動について初めて耳にしたのは、それからまもなく栗東トレセンに廐舎を持つ角居勝彦すみいかつひこ調教師が主催する勉強会に参加したときのことだ。角居調教師は、二〇〇五年から二〇一四年にかけて最多賞金獲得調教師賞を複数回受賞、二〇一一年には最多勝利調教師賞を獲得している。ドバイワールドカップの勝利など海外遠征の経験も豊富な、日本の競馬界を代表する一流調教師のひとりだ。その勉強会は、林さんにとって驚きの連続だった。
「トレセンでは調教師をトップにした廐舎ごとに方針があって、それらは企業秘密のように扱われています。でも角居先生は、廐舎の枠を越えて誰でも参加できる勉強会を開いていて、そこには若手を中心に十数名が集まっていました。角居廐舎の情報を惜しげもなく公開することも多くて最初はとても驚いたのですが、みんなでレベルアップして業界全体の底上げをしようという空気がありました」
 勉強会では角居調教師本人が話をすることもあったが、外部から講師を招くことも多かった。内容は日本と海外の調教の違いや調教画像の解析・分析、飼葉の調合など栄養学に関すること、木馬を使った騎乗フォームのチェックなど多岐にわたっていた。
 これらと一緒に、引退競走馬支援活動も重要なテーマとして扱われていた。同年十月、角居調教師はJRAの協賛を得た啓発イベント〈第1回サンクスホースデイズ〉を兵庫県の三木みきホースランドパークで開催するなど、具体的な取り組みもスタートさせていた。林さんにとっては願ってもない機会で、開催当日はボランティアスタッフとして参加した。そのなかでTCC Japan代表の山本高之やまもとたかゆきさんなど、引退馬支援に賛同する人々とのつながりもできていった。また限られた数ではあるものの、実際に救われてセカンドキャリアで活躍している馬たちがいることもわかってきた。
 引退競走馬を救う方法がある――その事実を知ったことで、林さんはラッキーハンターの将来をより真剣に考えるようになった。人懐っこくて穏やかで動じない性格は、乗馬入門者や初心者のレッスンで活躍するのに最適だ。また、あれほどコミュニケーション能力のある馬なら、ハードルが高いイメージの馬事文化普及のアイドル的な存在になっても不思議ではないと思った。
 だがそのプランは、あくまで林さんの胸の内だけのものだった。そもそも競走馬は馬主の所有物で、運命のすべてがその手中にあるといっても大袈裟ではない。預かり物である競走馬の行く末について思いを馳せるなど、廐舎の一職員として出過ぎた真似といわれてもしかたのないことだったのだ。


レースに出走するため馬運車で移動中のラッキーハンター 提供:林達郎

 とはいえ期待できる要素はあった。それはオーナーが、ラッキーハンターをとても大切にしていたからだ。馬主の名は、西村憲人にしむらのりとさん。北海道函館市湯の川温泉の老舗・花びしホテル代表取締役会長で、一般社団法人函館馬主協会の副会長でもある。
「ラッキーハンターの母親のユメノラッキー号は、私が馬主になって初勝利をあげた馬で、三勝して引退後は繁殖牝馬ひんばとして所有していました。その六番目の子どもとして生まれたのがラッキーハンターです。男の子が誕生したと連絡があったときは嬉しくて嬉しくて、すぐに日高郡新ひだか町の牧場へ行きました。初めて会ったときの印象は足が長くて、とても目がかわいい馬でした」
 西村さんは、一九四二年生まれの七十九歳(二〇二一年当時)。旅館業を営む実家は函館競馬場に近く、昔からレース開催時は調教師や騎手、馬主など競馬関係者の定宿として賑わった。高校時代から家業を手伝い、そこで出会った馬主にかわいがられて競馬観戦に連れていってもらったことが馬主に憧れたきっかけだという。大学卒業後はハワイのホテルで二年間修業して、二十六歳で家業を継いだ西村さんが念願かなって中央競馬の馬主になったのは、五十歳のときだった。
 以来、個人馬主として約五十頭を所有してきたが、なかでもラッキーハンターは、西村さんにとって特別な存在だという。
「最初は決して大きくはありませんでしたが、成長とともに馬体に幅が出始めて“馬っぷりの良い馬”へと変化していきました。時々牧場に会いに行っていましたが、広大な放牧場に向かって口笛を吹いて手を叩くと、ラッキーは私のもとへ駆け込んできてくれました」
 なぜラッキーハンターがこんなにも人懐っこい馬になったのか、私はあらためて理解できたような気がした。あの愛らしいキャラクターは元々の気質に加えて、純粋な愛情を持った人に注目され、かわいがられた経験のなかではぐくまれていったものなのだ。
 ラッキーハンターがかわいくて仕方がなかった西村さんは、いつでも会えるように、デビュー直前のトレーニングを函館競馬場に直接入廐させておこなうことにした。通常の新馬は、北海道の育成牧場から一度はJRAが管理する茨城県の美浦みほトレーニングセンターか滋賀県の栗東トレーニングセンターのいずれかでデビュー前のトレーニングを積み、準備が整ったら各競馬場に移動するため、それはかなりイレギュラーなことだった。
 だがそのおかげで、ラッキーハンターは林さんと出会うことができたのだ。それは愛馬の様子を見るためにほぼ毎日、廐舎を訪れる西村さんにとっても幸運なことだった。
「私が預託していた佐藤正雄さとうまさお調教師は、林さんを信頼してラッキーの調教をほぼすべて任せていました。林さんは、私以上にラッキーがかわいくて仕方がない様子で、会うたびにラッキーの様子を詳しく説明してくれました。さらに会えない日は、メールでその日の報告や写真を送ってくれたのです」
 馬を愛するオーナーと調教にあたる現場担当者が意気投合することは、とても自然なことのように感じる。だが林さんによると、こうしたことはかなりレアケースだという。
「通常、馬主さんは調教師としか話をしませんし、現場担当者とコンタクトを取る機会はまずありません。調教助手とメールアドレスを交換して、頻繁に連絡を取り合う西村オーナーのような方は、とても珍しいと思います」
 こうした関係ができたのは、いうまでもなく林さんがラッキーハンターを本当に大切にしていることが西村さんに伝わったからだ。
 だがラッキーハンターは、三歳馬になってからも勝利をあげることはできなかった。デビューから二〇一四年九月の阪神競馬場でのレースを最後に十三戦出走した後、中央競馬の登録抹消が決定した。
「数日間、何もしたくなくなるほどショックでした」
 当時を振り返る林さんは、かわいいラッキーハンターを一勝もさせてあげられなかったこと、オーナーの期待に応えられなかったことなど悔しさを口にした。中央競馬の引退後、地方競馬で走り続けることが決まっていたのがせめてもの救いだった。
 いよいよラッキーハンターとの別れの日、林さんはこれまで胸に秘めていたことを思いきって西村さんに伝えることにした。
「今まで本当にありがとうございました。ラッキーを勝たせてあげることができず、大変申し訳ありませんでした――という内容の後に、もし本当の意味で競走馬を引退する日がきたら、ラッキーは乗馬としてとても素晴らしい才能を持っていると思うので、差し出がましいお願いではありますが、どうかその時は連絡していただけると幸いです、という内容のメールを送りました」
 一方、西村さんは、いろいろな意味でまったく諦めていなかった。中央競馬の引退後、ラッキーハンターを大井競馬場に登録することに決めたのは、ある計画があったからだ。中央競馬で結果を残せなかった理由について、西村さんはつぎのように分析していた。
「ラッキーハンターは馬格があるわりに、腰、いわゆるトモが弱い馬でした。そこをかばおうとしたのか次第にスタートゲートに腰をもたれる悪い癖ができてしまい、スタート時から一完歩、二完歩遅れた競馬になっていました」
 一完歩とは馬の歩幅のことで、レース時のサラブレッドの一完歩は七~八メートルといわれる。二完歩の遅れとなれば、その後のレース展開はかなり厳しくなってしまう。だが西村さんは、ラッキーハンターの才能を信じていた。
「中央競馬には、一度は登録抹消された馬でも、地方競馬で三勝すると中央競馬に再登録できるルールがあります。トモの問題を克服しながら挑戦すれば、ラッキーは必ず結果が出せると考えていました。中央競馬に再登録したら、再び林さんにお世話になろうと思っていたのです」
 二〇一四年十一月十二日、ラッキーハンターは大井競馬場のダート一五〇〇メートルの十三頭立でデビューした。スタートはいつも通りだった。走りは悪くないが、やはりゲートでのロスは大きい。そのまま挽回ならず、第四コーナーでは最後尾近くにつけていた。
 もはや、これまでか……。西村さんの胸に不安と落胆が迫るなか、しかし直線に向かうところからみるみる流れが変わっていった。外側のコースを取るラッキーハンターが、力強く疾走しはじめたのだ。これまで前方を走っていた四~五頭がまたたく間に後方へ追いやられ、さらにポジションをあげるほどに勢いは増していった。地方競馬でデビューしたこの日、ラッキーハンターはなんと九頭をごぼう抜きする劇的な展開で優勝、競走馬として初勝利をおさめたのだ。
「やはりラッキーは走れる馬なのだと確信しました! 優勝したラッキーの目は、とても輝いていて、一緒に優勝写真を撮ったときは“俺やりましたよ!”と話しかけられたような気がしました」
 ドラマチックな展開に、私は手に汗握ってしまった。あの、穏やかでかわいいラッキーハンターに、そんなエピソードがあったとは……! できればその瞬間に駆けつけて、「優勝おめでとう」と声をかけたくなった。
 地方競馬時代のラッキーハンターは、体重五百キロを超える堂々たる大型馬になっていた。しかしトモの弱さの克服は難しく、スタートダッシュができない後ろからのレース展開になることが常だった。それでも直線コースではパワーが溢れていて、その翌年二月五日に二着、六月二十五日には優勝して、二勝目をおさめることができた。目標まで、あと一勝だ――しかし、勝負の世界は厳しかった。
 レース中に多重事故が起きたのは、二〇一六年一月十五日のことだった。十六頭でスタートしたその日も、ラッキーハンターは後方を走っていた。先頭集団が第三コーナーを抜けようとしたとき、突然中央前方を走る馬が崩れるように倒れると、その後を追う馬たちが次々と立ち上る土煙のなかへと姿を消していったのだ。それは七頭が落馬する大事故だった。
 西村さんには、悪夢ともいえる瞬間だ。常にレースをチェックしていた林さんは、すぐに電話を入れた。
「ラッキー、大丈夫ですか!?」
「擦り傷はひどいけれど、大丈夫そうです」
 この日のラッキーハンターは一番外側を走っていたため、ほかの馬がぶつかってきたときに横倒しになり、おかげで大きな負傷を免れることができたという。西村さんの説明に、林さんはようやくホッとすることができた。
 だがその後もラッキーハンターの成績は低迷したまま出走が続き、林さんは気を揉む日々が続いた。西村さんのラッキーハンターへの愛情は本物ではあるけれど、最終判断に口を挟むことはできない。それだけに二月末、「そろそろ引退させようかと思う」と連絡があったときは、本当に嬉しかったという。


久しぶりの再会を楽しむ林達郎さんとラッキーハンター
提供:筆者

 だが同時に、林さんは不安にも襲われた。引退競走馬支援の活動は、業界内でも始まって間もなかった。ラッキーハンターを無事にセカンドキャリアに繫ぐことができるのだろうか……。まずは信頼できる知人を介して、ある乗馬クラブにコンタクトを取ったが、あいにく受け入れる余裕がなかった。
 二〇一六年当時、角居調教師は一般社団法人ホースコミュニティを設立して、引退競走馬をセカンドキャリアに繫げる〈サンクスホースプロジェクト(現在はサンクスホースプラットフォームに変更)〉の運営を本格的に開始したところだった。しかし、林さんは相談するのは難しいと感じていた。
「プロジェクトでは、第一募集で保護された馬が決まったところでした。集まったのは角居廐舎に所属していた重賞馬や良血馬、ファンが多い人気馬が中心で、勝てなかったラッキーが入るのはとても無理だと思いました」
 林さんは、信頼できそうな乗馬クラブがないか、TCC Japanの山本さんにいてみることにした。その当時、山本さんはセラピーホースによる福祉サービス事業の立ち上げ準備をしながら、角居調教師のもとで引退競走馬支援プロジェクトで連携できそうな乗馬クラブを探すため全国調査をしていたのだ。
「それならTCCに入れる?」
 山本さんの申し出は、林さんにとって思いがけないものだった。サンクスホースプロジェクトに繫がれば、これほど心強いことはない。でも誰にも知られていないラッキーハンターのような馬を受け入れてもらうことなど、本当にできるのだろうか。林さんの問いに山本さんは、むしろラッキーハンターのような未勝利の無名の馬を救ってこそ、このプロジェクトの意味があると答えたという。しかし、TCC Japanの事業開始までにはもう少し時間がかかりそうだった。
 ラッキーハンターは、サンクスホースプロジェクトと連携する岡山の乗馬クラブで心身の休養を兼ねたリトレーニング生活に入ることになった。馬の輸送には専用の馬運車が必要だが、東京から岡山への輸送と引退競走馬に必須の去勢手術費用の約四十万円は、西村さんが負担した。引退馬が二束三文といわれる値段で売り払われてしまうことが多いなか、これも稀有なことだった。
 岡山での乗馬生活を経て、ラッキーハンターが正式にTCC Japan専属の馬として滋賀県栗東に戻ってきたのは、TCCセラピーパークの施設がオープンした二〇一九年五月だった。移動してからは、セラピーホースとして活躍するために必要な課題もスムーズにクリアしていった。代表的なのはコンビニのレジ袋のガサガサという音を聞いたり、傘が開いても驚かないことだ。これらは多くの馬にとって“怖いものベストテン”の上位を占めていて、ベテランの競走馬でも怯えてオロオロしたり、パニックをおこしたりすることもあるという。
 だが林さんいわく、ラッキーハンターには難問でもなんでもなかった。
「レジ袋や傘に驚くそぶりも見せず、むしろ鼻先を自分から近づけて、これなーに? と興味を示すほどでした」
 ラッキーハンターの様子はNHKの地域ニュースでも紹介された。番組を見た西村さんは、涙を抑えることができなかった。それ以降、西村さんは引退馬に支援金を付けて大学馬術部に寄贈するなど、愛馬たちをセカンドキャリアへ繫ぐ努力をしているという。
 競走馬からセラピーホースへ――多くの人の愛情と好意、そしてチャンスを繫いだ結果、ラッキーハンターは今ここにいるのだ。

(つづく)

片野ゆか

かたの・ゆか●ノンフィクション作家。
1966年東京都生まれ。2005年『愛犬王 平岩米吉伝』で第12回小学館ノンフィクション大賞受賞。著書に『ポチのひみつ』『北里大学獣医学部 犬部!』『ゼロ! 熊本市動物愛護センター10年の闘い』『動物翻訳家 心の声をキャッチする、飼育員のリアルストーリー』『平成犬バカ編集部』『竜之介先生、走る! 熊本地震で人とペットを救った動物病院』『着物の国のはてな』等多数。

『平成犬バカ編集部』

片野ゆか 著

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