[連載]
#15 留学業務担当 根本真吾
これまで14回にわたり取材を行ってきたスラムダンク奨学生インタビュー。最終回は『スラムダンク奨学金』プロジェクトの裏方として、立ち上げから全ての期の奨学生たちを見てきた留学業務担当者に話を聞いた。ゼロから作られた制度、そして各奨学生たちを客観的に見守ってきたことで感じる挑戦の尊さ。プレイヤーではないが当事者として語られる言葉には、親心と羨ましさが滲んでいた。
聞き手・構成=伊藤 亮
撮影/伊藤 亮
大雪に道を閉ざされて
困った。
この日、『スラムダンク奨学金』のプロジェクトで留学業務を担当する
2015年3月下旬。飛び立つ前の日本は桜も咲きそうなポカポカ陽気。しかし、アメリカへ着くと別世界だった。
「ニューヨークから北へ、通常なら2時間弱の道程なのですが、高速道路は半分くらいであとはずっと下道なんです。この時、高速に乗って30分も経たないうちにじゃんじゃん雪が降ってきて。アメリカにはスノータイヤなどなく、車が滑り出したんです」
空港に着いたのが夕方。大雪に襲われて間もなく日が落ちた。レンタカーにあるカーナビは心もとなかった。
「これはまずいと。サウスケントまではまだまだ距離がある。学校の担当に助けを求めたんですが、週末で学校は休み。担当に『大丈夫だ。頑張って来て』とだけ言われ、ハザードをつけて時速20マイルでトロトロ進むしかありませんでした」
それでも手に負えなくなり、再び担当に電話して周囲のホテルを探してもらった。しかし、いかんせん田舎のためにほとんどない。自力でなんとか見つけたが部屋が空いている保証などない。運よく泊まれることになったが、生きた心地はしなかった。
「本当に怖い思いをしました。ホテルのフロントで手続きを済ませ、車に戻ったんです。アメリカに来たばかりの猪狩君にはさぞ怖い思いをさせてしまったと思ったら、『サウスケントに着きましたか?』って。車の中でも散々電話をかけていたんですけど、本人はどこ吹く風でずっと寝てたらしいんです(笑)」
余計な心配をかけさせずにすんで安堵した一方、そのメンタルの図太さに心底驚かされた。
徐々に形作られていった『スラムダンク奨学金』制度
それまで勤めていた会社を辞め、日本の若者の海外スポーツ留学を斡旋する会社を2003年に立ち上げた。翌2004年に株式会社化し、「アスリートブランドジャパン株式会社」の代表になって17年が経つ。これまでに仲立ちしたスポーツ留学生は1200人超。留学先の大半はアメリカだ。
「自分がまずやることは出願書類を整えて審査してもらい、入学許可証を発行してもらったら大使館に持って行ってビザ面接をしてもらう段取りを進めます。そして学生ビザを発行してもらう。その後、健康診断など各学校の取り決めに従ってフォームへの記載や、各種手続きのペーパーワークも行います。これらは全て英語です。留学後も生徒やその親御さん、学校とのやりとりをして状況把握に努めます」
初めてアメリカへ留学する生徒は誰もが心細い。その不安を取りのぞき、安心してやりたいことに専念できるよう手助けするのが仕事だ。『スラムダンク奨学金』に関しても、プロジェクトの立ち上げから関わり、第1期生から現在までずっと見守り続けてきた。まさに“縁の下の力持ち”である。
今でこそ珍しくなくなったスポーツ留学専門の会社だが、会社を立ち上げたばかりの頃はほとんど存在しなかった。
「今から考えると恐ろしいですが、軽いノリで始めてみたんです。でも、スポーツ留学のパイオニアとしての自負はあります」
競合がほとんどなかったからか、根本の元に、なんの前触れもなく週刊少年ジャンプ編集部から連絡が入ったのは2005年。
「特に知り合いだったわけでも、コネクションがあったわけでもなく、電話かメールで突然連絡が来て。そこで『スラムダンク奨学金』の構想を聞きました。まずは実現可能かどうかを探ってほしいと。リサーチはしていないと答えたのですが、仕事として依頼されまして」
会社を立ち上げてまだ間もない時期。リサーチは不慣れだったが、
「当時の日本人留学生の状況を調べるところから始めました。その後、留学先候補として最初はNCAA(全米大学スポーツ協会)加盟の大学を考えていたのですが、第三者からの支援=奨学金は規約に抵触する恐れがありました。しかもNCAAは中学3年から4学年ぶんの成績をチェックします。では、学力が足りていないバスケットの有望選手たちはどうしているのか、と調べた時に出てきたのがプレップスクールでした」
これまで多くの留学生を見てきた経験から、成長のヒントは「プラス思考」にあると考えている。
撮影/伊藤 亮
アメリカの大学スポーツで、バスケットボールとアメリカンフットボールは“超”のつく花形だ。当然有能な選手を集めたい。それこそ中学生時代からスカウト合戦が繰り広げられるが、学力の足りない選手は、中学か高校卒業後にプレップスクールへ入り、競技を続けつつ大学入学に足る学力を身につけてから進学するパターンも珍しくない。
「競技レベルを維持しながら学力を伸ばす、いわばNCAA進学のための調整弁のような位置づけ。ここであれば、入学に際して学力も問われず、バスケットボールのレベルも高い。まずはプレップスクールに留学して、その後NCAAを目指せばいいのではないか、と。それで候補を探ったのですが……」
プレップスクールは全米に数多く存在するが、ほぼ全ての学校は「英語が話せる」ことが大前提。英語が話せない日本人でも留学可能で、バスケットボールのレベルが高い学校となると、数は限られた。
「ほかにも最終学年となるポストグラデュエイト(日本では高校4年生)から1年だけ受け入れてもらうことは可能なのか、という問題もありました。これらを総合していくと候補はどんどん絞られていきました」
2006年2月に提出した報告書に記載された候補校は7つだが、条件面からして実質5校に絞られていた。
「それで、この年の4月にプロジェクト関係者の方々と視察に行って、最終的にサウスケントに決めたんです」
決め手は環境だったという。当時、学校の周辺30分圏内は携帯電話の電波が届かなかった。周辺に娯楽施設はなく、山に囲まれた男子校。厳しいかもしれないが、バスケットのみに集中して打ち込むには最適な場所と考えた。
さらに、受け入れてくれる学校の留学担当者やバスケットボール部のヘッドコーチの人柄の見極めも重要だった。
「その中で理解を示してくれて、信頼の置ける留学生担当者やヘッドコーチがいたのがサウスケントでした」
ここに挙げたのは一例に過ぎない。『スラムダンク奨学金』の制度は、こういった地道なリサーチや綿密な話し合いを積み重ね、徐々に形を整えていったのである。
留学のあるべき姿は「自立心」の芽生え
ゼロから立ち上げた『スラムダンク奨学金』制度。だからこそ、第1期生に応募してきた
「並里君は世代のトップ選手。はたして彼が通用するのか、合格をもらえるのか、非常に緊張感がありました。『とりあえずではなく、実力で判断してくれ』とコーチにも散々念を押していて、実際ガチンコのトライアウトでした。でも、もし並里君が不合格だったら、制度は作ったものの最初からまた考え直さないといけなかった」
結果は、杞憂に終わった。ピックアップゲーム形式のトライアウトでは、後にNBA入りするアイザイア・トーマスとマッチアップ。そんな実力者と対しても、奨学金関係者の心配をよそに、並里は好プレーを連発。見事合格を勝ち取った。
「アメリカ人は日本人選手をお客さん扱いしない。この時もその後も、トライアウトでいつも感じることです。アップ時とは明らかに違うスイッチの入った状態での真剣勝負だったのは間違いありません。でも並里君はまったく
実際に合格の報を受け、嬉しさと同時に安堵の気持ちが押し寄せてきたことをよく憶えているという。
以来、ほぼ毎年奨学生をアメリカに送り込んできた。自身は選考には関わっていないものの、彼らの個性の強さには毎回驚かされるという。
「びっくりするくらい、みんな個性が違うんです。たとえばジミー君(第2期生)はアメリカ人相手にもトラッシュトークでやりあえる強さを見せた一方、同じ第2期生のビッグマン・
厳しいトライアウトを経て選ばれる奨学生は、日本では相当の実力を備えた選手ばかり。そこに、一般のスポーツ留学生とは違う特徴が見られる。
「スラムダンク奨学生は、日本では全国レベルだった選手が多い。つまり、試合に出るのが当たり前だった選手たちです。しかし彼らがアメリカに渡ると、思うように試合に出られなくなる。その時、何をしたらいいのか、自分の強みをどこまで把握できるのか、がカギになります。さらに留学期間が14カ月と短い。その間に結果を出さなければいけないプレッシャー、奨学生に選ばれたことの自負もあるでしょう。一般留学生は途中で辞めることもできますが、スラムダンク奨学生は簡単にその決断はできない。外的要因かもしれませんが、自分で自分を追い込む境遇だからこそ生まれる自覚、気持ちの強さがあるはずです」
奨学生を送り出した後、相談に乗るのも業務の一環だ。しかし意外にも相談はあまり来ないという。
「経費精算やTOEFLの対策、長期休暇中の外出についてや、進路のことなどの問い合わせ。ほかにも思い悩んで連絡してくることもたまにありますが、あまり来ません。来ても最初だけ。あとは基本自分で解決しているようです」
時にはこちらが心配になるほど連絡が来なかったりする。しかし、「自分で解決する」傾向が見られることは、留学であるべき本来の姿だと理解している。
「留学の意義として、自立心を高めて自分で解決していくことが挙げられます。特にアメリカでは待っているだけでは何も来ない。積極的に自分から出ていって獲得していかないとやっていけません。その点に気付けば自立心は自然と身についていく。難しいのは、それを口頭で伝えても意味がないということです。どこまで手を差し伸べるべきか、その度合いは人によって違ってくるので判断が難しいところではあります。でもヒントを与えることはあっても、主張して獲得する姿勢は自分で気付かないと身につきませんから」
左からモサク オルワダミロラ 雄太 ジョセフ選手(第13期)、井上雄彦先生、根本氏、木村圭吾選手(第12期)。訪れるたびに選手から刺激とエネルギーをもらっている。
写真提供/根本真吾
つまり、連絡が少ないということは、留学の意義を理解し、一人苦しみながらも自立心を獲得している証左でもある。
「これが奨学生二人の期はどう折り合いをつけていたのだろう、と思うことはあります。第2期の谷口君とジミー君はもともと自立心が強い印象でしたが、第11期の
奨学生の成長を目の当たりにできる喜び
奨学生の成長を直に目撃できるのは、この仕事の醍醐味だ。毎年高校3年生の春に現地での最終トライアウトへ同行し、合格した奨学生を1年後にアテンドする。そしてさらに1年後の卒業間近に事務局関係者とともに現地を訪ねる。成長の跡は、訪れるたびにはっきり感じ取れる。
「定点観測しているのはチームへの溶け込み具合です。それまでよそよそしかったのが、違和感なくコーチやチームメイトと談笑している。接し方もいじられ方も自然になっているんです。みんなでじゃれているのを見ていると嬉しくなります」
野心丸出しで渡米した当初とは違い、目つきが優しくなっているのも特徴だという。
「環境に慣れて、リラックスできるようになった証拠でしょう。一方で体つきはみんな驚くほど大きく、屈強になります。
チームメイトとの関係や身体つきの変化を見て伝わってくるのは、苦しみもがきながらも自分に向き合い続け、考え、動き、何かを獲得していっている手応えだ。そこにブレイクスルーのヒントらしきものが見える。
「アメリカ人はびっくりするくらいプラス思考なんです。礼節を重んじる日本人からすると、時に無責任に感じてしまうほどポジティブ。そういう環境の影響もあるかと思いますが、苦しい経験もプラスに転換できるようになると強い。そして、僕が前の会社で働いていた時に接した一流アスリートたちもそうでしたが、1日24時間、本当に考えている。完全にマニアです。奨学生にも身体についてだったり、動きの質についてだったり、こだわっている選手が見受けられます。そういった点を職人のように極めていけるか。総じて言えば、自分が本当にバスケットボールを好きかどうか。『スラムダンク奨学金』はそれを試せる最高の機会だと思います」
成長の跡は、バスケットコートだけにとどまらない。
「最初、英語が話せない間は僕が通訳するんですけど、その時は尊敬されるんです。でも、留学後しばらくすると僕の英語力の拙さがバレてしまう(笑)」
個人差はあれど、奨学生たちの英語のレベルが目に見えて上がっていくことに関しては、気後れさえ感じてしまう。
「小林君(第11期生)は優等生タイプで志も高く、英語力がどんどん高まっていきました。
自身に指導者経験はないが、生徒を持つ先生やコーチの喜びとはこういうものだろう、と奨学生の挑戦と成長を見守りながら感じている。そして彼らを“羨ましい”とも。
留学した14カ月の事実は消えない
自分はあくまでスポーツ留学生のサポート役。しかし、彼らが成長するのを見るたびにエネルギーと刺激をもらう。そして成長を目撃して、思わず“羨ましい”と感じてしまう。なぜかというと、自分が果たせなかった希望がここにはあるからだ。
「アスリートの選手生命は延びているとはいえ、ピーク時に世界に出て試せるのは本当に限られた時間です。僕のようにあとから後悔しても、その時間は絶対に取り戻せない」
自身は陸上選手だった。埼玉県立大宮高校時代は1500m走と800m走でインターハイに出場。年間高校ランキング10位までいった。一方、当時BS放送などで始まったMLB中継や地上波で放送されていたNFLを見てアメリカンスポーツに魅了される。上智大学進学後、帰国子女の先輩にNBA観戦を勧められ、マイケル・ジョーダンの影響もあり
アメリカンスポーツ好きが高じて就職したミズノ株式会社では米国へ赴任。その際知り合ったアメリカ人の同僚から、自分の陸上の記録ならNCAAに奨学金をもらって挑戦できた事実を知る。
もし知っていたら、絶対アメリカに挑戦していた―― 。この思いが、現在の会社の起業につながっている。
「自身の経験ですが、言葉は通じなくてもスポーツを通じて誰とでも仲良くなれる。そしてその仲は一生ものになります。『スラムダンク奨学金』も留学した14カ月の事実は消えない。そこでの経験や人脈はその後、いかようにも活かせる財産になります。奨学生には各自の目標があるので僕が言うことではありませんが、若いうちから世界とつながることで得られるメリットやチャンスがあるということも知っておいて損ではないと思います」
押し付けはしない。でも、奨学生の挑戦には根本真吾という男の夢もまぶされている。
文中敬称略
※当企画は今回で最終回です。長い間、ご愛読ありがとうございました。
COLUMN
♯15 根本真吾
「SLAM DUNK」で
好きなキャラクター、シーンは?
『SLAM DUNK 新装再編版』10巻より
神奈川県決勝リーグで海南大附属に敗れた後、桜木花道がシュート練習に明け暮れるシーンに共感します。僕もアメリカに留学していた時、ピックアップゲームで周囲と親交を深めたのですが、陸上しかしてこなかったため体力はあってもすごく下手で。なんとか勝利に貢献したいと必死になってました。その時ずっとやっていた練習がすごく楽しかった。ひたすら苦しく走っていた陸上の練習より、根本的に楽しい。花道の「シュートの練習は楽しかった」というシーンを見るたび、当時の空気が蘇ってきます。
© 井上雄彦 I.T.Planning,Inc.
■スラムダンク奨学金とは
『スラムダンク』の作者・井上雄彦の「この作品をここまで愛してくれた読者とバスケットボールというスポーツに、何かの形で恩返しがしたい」という志から始まり、高校卒業後、大学またはプロを目指しアメリカで競技を続ける意志と能力を持ちながら、経済的その他の理由でその夢をかなえられない若い選手を支援することで、その目的を果たそうと設立された。2008年から毎年、高校卒業見込み、またはそれに相当する学生を若干名選考し、現地でのセレクションを経てアメリカのプレップスクールに送り出している。これまでに15名が留学し、多くの選手がBリーグやアメリカの大学などで活躍している。
スラムダンク奨学金
主宰:井上雄彦、アイティープランニング有限会社、株式会社 集英社
協力:公益財団法人 日本バスケットボール協会
根本真吾
ねもと・しんご
1968年7月25日生まれ、埼玉県出身。84年埼玉県立大宮高校に入学。陸上部に所属しインターハイに出場。87年上智大学に入学。91年カリフォルニア州立ヘイワード校(現イーストベイ校)に留学。93年にミズノ株式会社に入社。二度にわたりジョージア州アトランタのミズノ米国本社勤務を経験。2003年独立し、04年アスリートブランドジャパン株式会社を設立。スポーツ留学の斡旋に務める。05年よりスラムダンク奨学金の運営に携わる。