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スラムダンク奨学生インタビュー #14
第13期生 須藤タイレル拓

[連載]

#14 第13期生 須藤タイレル拓

失敗を乗り越えてきたからこそ、成功したときの喜びは大きい。忘れられない悲しみがあるからこそ、人の温かさを大事に感じられる。バスケットボールも人生も、思うようにいかないときはあるけれど、家族や仲間に支えられて乗り越えてきた。挑むための勇気を持つこともできた。そして今、父の祖国アメリカの地で、挑戦は続く。

※用語解説は記事末に記載します。

聞き手・構成=宮地陽子


撮影/Charles Milikin Jr.

『俺が亡くなっても強く生きろよ』

 須藤すどうタイレルたくがバスケットボールを始めたのは、まったくの偶然だった。小学4年のとき、友だちから人数が足りないからと頼まれ、1週間だけ練習して試合に出た。それまでバスケットボールをやったこともなく、まったくの素人。初めて出た試合の内容は、ほとんど記憶にないという。ただ、シュートを1本決めたことと、そのときにすごく嬉しかったという気持ちだけは鮮明に覚えている。
「何回も何回も失敗しながら、成功したときのまわりの応援とか、自分の中の『よっしゃ、成功した』っていう気持ち。何かすごく嬉しかったです」
 思えばそれからずっと、そのときと同じような喜びを求めてプレーし続けている。
「できないことができるようになるのが嬉しくて、それがもっとうまくなりたいというモチベーションに変わる。いろんなスポーツをやってきた中で、一番必死になれて、うまくなろうと思えたのがバスケでした」
 バスケットボールの前にはサッカーや野球をやってみたが、どちらもしっくりこなかった。そんな中で出会ったバスケットボールに、夢中になった。そしてバスケットボールに導かれるように、人と出会い、人生が変わっていった。

 子どものころの夢は歌手になることだった。父の影響だ。アメリカ人の父はプロの歌手で、バンドのボーカルとしてライブハウスなどで活動していた。子どものころに風呂場で歌っていると、リビングルームから父が大声で叫んできて、歌の指導をされたことを覚えている。
 その父は、須藤が10歳のときに病気で亡くなった。それから10年の年月がたったが、悲しみが薄れることはなく、むしろ喪失感が増しているようにも感じる。
「これから先、何年生きたところで、その事実は変わらないです。お父さんがいたらよかったなと思うときも多々ありました」
 そんなときに支えとなったのは、生前の父からよく言われていた言葉だった。
「僕が小さいころからずっと『強く生きて、お母さんを大切にしろ』『俺が亡くなっても強く生きろよ』って言われていました。まだ全然元気なときから。だから、頑張ってずっと強く生きています。この言葉はお父さんからの、一番でかいアドバイスですね」
 今も歌は大好きで、風呂場で毎晩大熱唱している。歌声を聞いたことがある人によるとかなりうまいらしい。レパートリーは幅広い。
「バラード、R&B、ポップスなど、色々歌います。滑舌が悪くて舌が追いつかないので、ラップだけは成長がゆっくりですけれど」
 今も父のようにプロの歌手になりたいという気持ちはあるのかと聞くと、「バスケが無理だったらそっちって、もう決まっているんで」と、まんざらでもなさそうに笑う。
「お父さんの大親友がいて、その人にずっと、人生のプランBは歌手だって言われてるんで。だから、もしバスケでやっていけなくなったり、引退したら歌手に転向するっていう人生プランが、勝手に立ってます」

才能には限界があるけれど、努力には限界がない

 でも、今はまだバスケットボールに夢中だ。小学4年でバスケットボールの楽しさを知った須藤は、6年のときには横浜ビー・コルセアーズのユースチームに所属し、本格的に練習をするようになった。同時に、小学生のうちはミニバスのチーム、中学に進学すると中学の部活にも入っていた。部活はチームとして活動する場で、ユースチームは自分のスキルを磨く場。
「チームスポーツっていうよさと、自分のスキルを磨きあげるという二つの環境があったのは自分にはよかった」
 当時のコーチによるとこのころの須藤はまだ身体からだが小さく、スキルも追いついていなかった。それでも、誰よりも才能と将来性を感じたという。もっとも、須藤自身はそんなことは考えてもいなかった。
「自分に才能があるとは今でも思っていない。自分より身体能力とかIQが高い選手っていうのはたくさんいるわけで」
 当時も今も、自分の直感を信じてプレーしている。考えるよりも、反射神経を使い、身体が動くにまかせてやってきた。
「基本的に全部感覚。プレーとかも、直感で動いているんで」
 そんな中で出会った言葉がある。
「才能には限界があるけれど、努力には限界がない」
 この言葉を知ってから、もっと努力しようと意識するようになった。
「この言葉は自分には刺さった。チームの中では才能があるほうだったけれど、バスケ界全体で見たら全然才能がないほうで、IQもすごい低い。そんな中で、何で人を超えられるかってなったら、やっぱり努力。努力っていうのはすごい大事なんだなって思いました」 中学の3年間で身長が16㎝伸びた。1年のときには156㎝だったのが、3年のときには172㎝になったのだ。
「気づいたら172になってました(笑)。最初のうちはみんな、僕よりでかかったのが、『あ、みんなちっちゃくなっている』みたいな感じ」と笑う。
 通っていた本牧ほんもく中学は決して強豪ではなく、県大会出場を目標とするレベルのチームだった。それでも、それぞれの選手が持ち味を生かすことができるチームで、「すごくいいチームでした」と断言する。
 そのチームで、須藤は「基本的に全部やっていました」という。ボールを運び、パスをまわして、指示を出し、1対1から得点を取りに行き、リバウンドにも飛び込む。
 そして3年のときには、ついに目標を達成して県大会に出場した。チーム史上初めての快挙だ。すごく嬉しかったのを覚えている。
 もっとも、いざ出てみたら、県大会は別世界だった。一回戦敗退。
「一応目標は達成したんですけれど、やっぱ、そこから先の壁はでかかったですね」

 高校は県大会上位常連校の横浜清風せいふう高校に進学。中学で全国大会に出たこともなかったので、チームから勧誘されたわけではない。強豪で自分にあいそうな学校を選び、バスケ部に入部した。まわりの選手がみんなうまく見えた。
「自分は確実に下のほう。1年目は『あ、これはやばいな』っていう感じでしたね。練習とかもきつくて、嫌で」
 そこで出会ったのがバスケットボール部顧問の三宅学みやけまなぶ先生だった。須藤が「僕が今まで教わった指導者の中で一番偉大な存在」と敬愛するコーチだ。
 三宅先生は現役時代にはガードとして日本代表にも選ばれた実績の持ち主。高いレベルでプレーしていた先生の言っていることが理解できないこともあった。それでも諦めずに理解しようとすることで、自分で考える力が身についた。
「先生は自分たちにできない領域のことを言ってくるんですけれど、それでも考えているうちに、ちょっとずつ理解できるようになる。難しくても自分の中で考えて、チームで考えてやり続ければ、必ずその答えにたどりつく。そういう先生です。わからなければちょっとずつそこに導いてくれる。直接答えを与えるんじゃなくて、考える機会を与えて、頭を使わせて、自分たちで結果をつかみ取ることをメインに考えていた先生だと思っています」


三宅学先生に出会ったことは人生のターニングポイントのひとつ。諦めないこと、自分で考えて答えをみつけることを教わった。
写真提供/須藤タイレル拓

 2年のとき、練習の途中で体育館から追い出されたことがあった。
 瞬発力があり、攻撃の突破力がある須藤は、ボールを持ったら目の前にいる一人目のディフェンスを抜いて、アウトナンバー(※1)状態を作るようにと言われていた。しかし、先輩のディフェンスを思うように抜くことができず、自爆気味に攻撃が終わってしまうことが続いた。自信を失って積極的に攻めることを諦めたら、雷が落ちた。
「もう辞めちまえ! 体育館から出ていけ!」
 言われるままに外に出ると、悔しさと怒りで涙がこぼれ落ちた。「そこまで言うなら本当に辞めてやる」とまで思った。
 それでもバスケ部を辞めなかったのは、3年生のチームメイトが引きとめてくれたからだった。
「先輩たちが引きとめてくれて、僕がどれだけチームに大事かっていうのを伝えてくれて。この先輩たちのためにも、チームのためにも、諦めずに俺はもっとうまくならなきゃなって考えるようになりました」
 練習に参加するために、三宅先生に謝りに行った。
「謝りに行くと、そこは絶対に突き放してくるんですよ。僕が『三宅先生』って言った瞬間に、『いや、帰れよ』とか言われて。絶対に突き離してくるんです」
 それでも諦めずに何度も謝りに行き、そのたびに「帰れ」と言われて……というのを繰り返しているうちに、これは物ごとがうまくいかないときにすぐに諦めてしまう自分に対しての先生なりのメッセージだと気づいた。諦めずに続けて、うまくいかなくても向かっていくことがどれだけ大事なのか。このやり取りを通じてそのことを学んだ。毎日先生のところに通い、1週間半後にようやく練習に戻ることを許してもらえた。
「それ以外でも練習試合で僕だけ怒られて、試合に出してもらえないみたいなこともあった。そのころはまだ先生の考えが理解できていなかったんで、悔しくて、ほかの人たちのミスとかが目について『あいつらだってこうやってんじゃん』みたいな感じになっていたんですよ。でもそれが違うなっていうことが徐々にわかってきて。誰がどうするじゃなくて、自分がどうするかっていうのが大事なんだなっていうのがちょっとずつ理解できて、そこから自分も変わっていきましたね」

体感で自分より40㎝でかそうな人が
猛スピードで突っ込んでくる

 成長という面では、中学のときにプロの選手たちに個人指導してもらったことも大きかった。ビー・コルセアーズのユースチームで出会った親友の高橋幸たかはしこうと共に、当時のビー・コルセアーズの選手たちにレッスンをしてもらっていた。そこで学んだのはシュートやドリブルなどのスキルだけではなかった。プロの選手と対峙することで、無意識のうちにプロ選手の意識に触れていた。
「(プロの選手たちは)こいつを絶対に倒してやるっていう、闘争心がすごく強いのを感じました。自分はそのころ、まだバスケを遊び程度に楽しくやっていたんですけれど、幸といっしょにプロの選手と関わっている中で、こいつらに負けたくない、負けちゃいけないっていう意識がついてきましたね」
 アメリカに行ってバスケットボールをすることを考え始めたのも、そうやって学校の部活を超えて色々な人たちと交流した影響が大きかった。それまでは考えたこともなかったが、外からの刺激を受けたことで、目指したいという気持ちが湧いてきたのだ。そんなとき、ユースチームで二つ上の先輩、小林良こばやしりようが『スラムダンク奨学金』でアメリカに留学したと聞き、「そういう制度があるなら、自分もそのときになったら挑戦してみようかな」と思い始めた。
 そして高校2年のときに応募。トライアウトを経て合格したという通知が来たときは、嬉しさよりも驚きが大きかった。
「信じられなかったですね。『え?』っていう感じで、頭の中が真っ白になりましたもん。お母さんが嬉し涙流して、すごい跳びはねて抱きついてきて、僕は『受かったけど……マジ?』みたいな感じでした」
 アメリカで行われた最終トライアウトでは、セントトーマスモアの現役選手たちに交じってプレーした。それは、まったくの別世界だった。この頃には須藤の身長も180㎝近くまで伸びていたが、それでも小さいほうだったのだ。
「2m超えの選手がふつうにリバウンド取って、オールコートでドリブルしてくる。体感で自分より40㎝でかそうな人がドリブルして猛スピードで突っ込んでくるから、本当に怖くて。でも、そこに立ち向かっていく自分もいて。ここのほうが日本より絶対レベルアップできるなっていうのは心の底から感じましたね」
『スラムダンク奨学金』に受かったということは、そういう世界に入れるということ。それは嬉しかった。一方で、それは母と離れて生活するということを意味していた。
 父が亡くなってからひとりで自分を育ててくれた母に、須藤は心から感謝し、大切に思っていた。高校に3年間行かせてくれて、遠征などの費用も出してくれた。成長期の須藤が精神的に不安定だったときにも支えてくれた。おかげで選手としても、そして人間としても成長できた。
「お母さんは僕に残された唯一の親なので、一番大切な存在。大切にしなきゃなっていうのは思っています」
『スラムダンク奨学金』に応募するときに、母のもとを離れることに躊躇ちゆうちよがなかったわけではない。しかし母は「拓の人生だから、自分のしたいようにしなさい」と、背中を押してくれた。その思いを受けての渡米だった。


今も昔も、最大の武器はスピードと瞬発力。アメリカではサイズで劣る分、スピードだけは誰にも負けないように意識して走っている。
撮影/ Charles Milikin Jr.

「お母さんが笑顔で送り出してくれたので、自分も、引きずらずに気持ちよくアメリカに来ました」
 実はアメリカには異母兄姉が3人いる。まだ一度も会ったことはないが、以前から連絡は取り合っている。彼らと会うのはこの先の楽しみのひとつだという。

実際に自分の力が通用する。それは嬉しいサプライズ

 当初、20年春からスタートするはずだった留学期間だったが、コロナ禍のために渡米が半年遅れた。8月末、待ちかねたように渡米した須藤を待っていたのは、思い描いていた通りの刺激的な環境だった。
「コート内の雰囲気が日本とはまったく違うんですよね。みんなでかいですし。そんな中で自分が何で勝てるかっていったら、やっぱり瞬発力とスピードと感覚、反射神経。だから、やっぱりその要素を生かして戦っていかなきゃなって思います」
 もうひとつ日本との違いは、お互いに率直に意見を言い合うこと。意見が違ってもぶつけ合い、話し合うことで、さらなる成長にも繫がっている。
「お互いに相乗効果で成長していくっていう感じがすごくある。思っていることはすぐに言うし、それに対して納得いかなかったら、納得いくまでお互いに言い合う。そんな中でチーム力と個人のスキルっていうのがどんどん上がっていく。すごくいい環境です」
 チームに入ってみたら、予想以上に自分の力が通用した。中でも1対1でのオフェンス能力はコーチからも高く評価された。そのため、攻撃の起点としてチームの得点チャンスを作り出すのが役割だ。
「(コーチからは)1対1がチームで一番うまいって言われていて。それを生かすフォーメーションになると、『お前がボールをもらって(プレーを)コールしろ』って言われています」
 持ち前の瞬発力を生かしてディフェンスの一瞬のすきをついて攻め込み、そのまま自分でシュートを決めたり、パスを出して味方のシュートをセットアップする。高校時代に叩き込まれたことだ。1年余前のトライアウトで「別世界」と感じた場で、実際に自分の力が通用する。それは嬉しいサプライズだった。
「素直に嬉しくて、成功するから、もっとレベルを上げていきたいなとも思う。そんな中でうまくいかないこととかもいっぱいあって、自分にイライラする場面も毎日のようにあるんですけれど、コーチはそれをちゃんと見ていて、だめなところはしっかり言ってくれる。ひとりひとりもちゃんと見ているっていうのがすごい伝わりますね」
 練習中にヘッドコーチのジェリー・クインからよく指導されるのはディフェンスだ。
 コーチ・クインは言う。
「拓はオフェンス面では限りなく自信を持っている。誰よりも点を取れるという自信を持っていて、実際にできる。ただ、大学に行ってからも試合に出るにはディフェンスが大事。その点は上達する必要がある」
 須藤も「オフェンスはできるんですけれど、ディフェンスが大の苦手で」と認める。コーチ・クインからは毎日のように「もっとウィングスパン(※2)を使え」と言われている。身長183㎝の須藤だが、何しろ、ウィングスパンは203㎝。身長より20㎝も長いウィングスパンは、うまく使えば、この後どのレベルに行っても武器になる。
「でも、その生かし方がわからないっていうか。うまくいくときもあるんですけれど、長いと、ずっと上げているのが疲れるんですよ。気づいたら下がってしまって、『もっと上げろ!』って言われてます。毎日。その繰り返しです。ディフェンスを徹底的にやらされます」
 もうひとつ、コーチからよく注意されるのは、自分の感情をコントロールすること。それも自覚はある。


留学して、物事の見方も変わってきた。自分の意見を持ち、はっきり表明するアメリカ流に触れ、日米それぞれのよさを大事にしたいと言う。
撮影/ Charles Milikin Jr.

「むかついたりとか嫌になったりすると、自分の中でテンポが落ちるんですよ。チームの動きの中で、不調なときは俺だけちょっとテンポが遅れているんですよ。好調なときとか、テンションが上がっているときは、誰よりも速く動いて、裏をつけたりとかできるんですけれど、その落差が激しくて。それをよく言われますね。それはバスケやっている中でずっと言われていることで、だんだんよくはなってきているんですけれど、まだまだ足りないなって思います」
 そんな須藤について、同じ13期生のモサク・オルワダミロラは「速いですね。ストップとゴーがすごいです。見ていて楽しいっていうか。ファン、みたいなところもあります(笑)」と語る。二人はよく似たところもある一方で、まったく正反対の部分も持っている。バスケットボールでも、モサクは考え抜いてプレーする頭脳派で、須藤は自分の感覚を大事にする直感派。
「ディー(モサク)は自分の思っていることを一番言える相手ですね。まったく真逆の意見が出てくることもありますし、お互いに合致する意見もありますし、似ていて似ていないんだなっていう感じ」と須藤も言う。

 コロナ禍での留学となり、思うようにいかないことは多い。公式戦ができない分は練習試合で埋めることができているが、大学コーチに直接プレーを見てもらえる機会が少ないことは痛い。
「画面を通して僕のプレーを見るのと、自分の目で見るのとじゃ全然違う。アシスタントコーチからも、僕の一歩目の速さはビデオじゃ伝わらないって。ほかの選手は今まで直接見てもらう機会があったからオファーを受けやすいけれど、自分は今年初めてここに来て、まだ誰のレーダーにも映っていない。そんな中でオファーをもらうっていうのはなかなか難しい環境なんです」
 希望はNCAAディビジョンⅠ(D1)の大学。実は、ディビジョンⅡの大学からはオファーが来ているが、ぎりぎりまでD1にこだわってオファーを待ちたいのだという。それは、大学の先の夢をかなえるためでもある。
「アメリカに来たからには、やっぱり一番でかい夢はNBAに行くこと。そのためにもD1に行きたい。D1に行って、自分の実力をアメリカ中に見せてNBAに行きたい。最大の目標はそこです」
 どんなに大きな夢も、挑まなければ実現するかどうかはわからない。これまでも、そうやって常に挑んできた。
「これまでも、次のレベルに行くたびに挑戦してきた、小学4年生から6年生まで自分はずっと挑戦する側で、6年生で自分のチームを引っ張る側に立って。そこから中学に入って、また挑戦する側になって、成長していって3年生でチームを引っ張る役になって。高校になっても同じ繰り返しですね。バスケ人生でずっと挑戦してトップになるというのを続けています。それはどこに行っても、たぶん変わらない。そうやって挑戦し続けることを一番大事にしています」

■用語解説
※1 アウトナンバー: 攻撃エリアにおいてオフェンスの人数がディフェンスの人数を上回る状態のこと。
※2 ウィングスパン: 両腕を左右に水平に広げたときの片側の指先からもう片方の指先までの長さ。

COLUMN
♯14 須藤タイレル拓

「SLAM DUNK」で
好きなキャラクター、シーンは?


『SLAM DUNK 新装再編版』18巻より

『スラムダンク』は、日本の自分の部屋に全巻あります。枕元に並べてあって、眠れないときに読んだりしていました。好きなのはプレースタイルで言ったら流川で、キャラクターで言ったら桜木花道。桜木は、本人は盛り上げようとしているわけでなくても、まわりを鼓舞するキャラクターがすごく好きです。好きなシーンは山王工業戦で、まわりが全然乗っていなくて点取れていないときに、三井がひとりで3ポイントをバスバス決めて、持ちこたえさせるところ。あの精神力、一回グレて、そこから戻ってきて、チームを引っ張れるような存在というのがいいですね。

© 井上雄彦 I.T.Planning,Inc.

■スラムダンク奨学金とは

『スラムダンク』の作者・井上雄彦の「この作品をここまで愛してくれた読者とバスケットボールというスポーツに、何かの形で恩返しがしたい」という志から始まり、高校卒業後、大学またはプロを目指しアメリカで競技を続ける意志と能力を持ちながら、経済的その他の理由でその夢をかなえられない若い選手を支援することで、その目的を果たそうと設立された。2008年から毎年、高校卒業見込み、またはそれに相当する学生を若干名選考し、現地でのセレクションを経てアメリカのプレップスクールに送り出している。これまでに15名が留学し、多くの選手がBリーグやアメリカの大学などで活躍している。

スラムダンク奨学金
主宰:井上雄彦、アイティープランニング有限会社、株式会社 集英社
協力:公益財団法人 日本バスケットボール協会

須藤タイレル拓

すどう・たいれる・たく
2001年4月6日生まれ。神奈川県出身。小学6年より横浜ビー・コルセアーズのユースチームに所属し、本格的にバスケットボールを始める。本牧中学校で県大会に出場。17年県大会上位常連校の横浜清風高等学校に入学。2年時と3年時に県大会2位。20年にスラムダンク奨学金第13期生としてセントトーマスモアスクールに入学。同校での名前は、父親の姓を使いTaku Youngblood。ガード、フォワード。183cm、82kg。

『PLUS/SLAM DUNK ILLUSTRATIONS 2』

井上 雄彦 著

愛蔵版コミックス・発売中

定価 3,960円(10%税込)

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