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スラムダンク奨学生インタビュー #10
第3期生 矢代雪次郎

[連載]

#10 第3期生 矢代雪次郎

全国的に無名の自分がスラムダンク奨学生になれるとは。矢代雪次郎やしろゆきじろうの合格は、その後の『スラムダンク奨学金』希望者に可能性という光を与えた。アメリカでは心が折れそうな現実を突きつけられる日々。それでもしがみつく手がほどけなかったのは、劣等感と反骨心、そして自分をごまかさない正直な心だった。

聞き手・構成=伊藤 亮


撮影/伊藤 亮

左手親指の靭帯断裂

 それはシーズン開幕を間近に控えた、2010年9月初頭の朝練習での出来事だった。1対1の練習で、相手は後にNBA入りするモーリス・ハークレス。懸命にディフェンスをしていたが、身長2mの巨体に押しこまれ倒れた。そして思わずコートについた左手を、もつれたハークレスが踏んでしまう。瞬間、親指に激痛が走った。しかし、矢代雪次郎は痛みをこらえ、黙って練習を続けた。
「その時は必死だったので。その日の練習をやり終えて、次の日もその翌日も練習したんですが、患部が真っ青になり、しまいにはどす黒くなっちゃって。さすがに『痛い』と報告したら、コーチに『こんなになるまでなんで隠してたんだ。いつやった?』と。『3daysago』くらいの返事はしたと思うんですけど」
 チームドクターに病院へ連れて行ってもらった。結果は左手親指の靭帯断裂。すぐにでも手術が必要となったが、英語が理解できなかった矢代には分からない。
「ドクターに神妙な顔つきで『どんな気分だ?』と聞かれたので『は、なにが?』と聞き返したら『手術』だと。手術は『surgery』と言うんですが、僕は『operation』と思っていたので意味がよく分からず、辞書で調べてやっと理解した。そこからはもう、頭が真っ白でした」
 サウスケントスクールの体育館へ帰ると、チームメイトはまだ練習をしていた。彼らの練習を中断させ、チームドクターが報告をする。なにを伝えているか聞き取れなかったが、自分の手術のことを言っているであろうことは空気で感じた。
 みんなの前で、泣きに泣いた。
「泣き崩れました。留学期間は14カ月。うちバスケのシーズンは9月から翌年3月まで。限られたシーズンの最初の数カ月を棒に振ることが決まった。自分よりうまい奴相手に一から頑張ろうと思ってた矢先に出遅れることが決まったことの悔しさをはじめ、いろんな考えが頭をよぎりました」
 普段からかってきたり、嘲笑したりする選手も、この時ばかりはやさしい目でハグをして慰めてくれた。もちろんハークレスも。
「その間だけはすごい嬉しかった。アメリカ人てやさしいんだ、と。このチームなら復帰してからも、きっと安心してプレーできるって希望を持てたのが救いでした」

信じてもらえなかった合格

『スラムダンク奨学金』第1期生は並里成なみざとなりと。第2期生は谷口大智たにぐちだいち早川はやかわジミー。いずれも世代別日本代表に名を連ねる、同世代の誰もが知るスター選手だ。一方、矢代は全国大会出場の経験はなし。流通経済大学付属かしわ高校時代は千葉県ベスト4が最高成績。正直、自分にとって『スラムダンク奨学金』は縁遠いものと決めつけていた。
 そんな彼の背中を押してくれたのは、両親だった。
「両親とも海外の文化が好きで憧れていて、家でも洋楽ばかり聞いていました。僕や兄貴をインターナショナルスクールに入学させようとしたこともあったらしいです。僕と兄貴が小学校の学童でバスケを始めて、NBAを観てアメリカに行きたいと言った時も反対されませんでしたし」
 中学時代に『スラムダンク奨学金』の設立を知った時は、親と興奮して話した記憶がある。だが高校生になると部活に明け暮れた。目の前の日々に精一杯で将来のことなど考える余裕がない。高校2年の冬、『スラムダンク奨学金』第3期生の応募締切1週間前になっても、乗り気ではなかった。気にはしていたが、毎日の生活に疲れ切っていた。
「でも母親に『応募は無料だし、受けるのは自由だし、落ちて元々でしょ』と言われて。納得してすぐに知り合いに新人戦のプレーを編集したDVDを作成してもらい、僕はとにかくアメリカへの想いを作文2ページにまとめて。あの時だけは徹夜しました」
 小学校6年生の時に、20歳の自分へ手紙を書く機会があった。そこには「アメリカに留学することと、NBAに入ることが夢です。今は絶対にアメリカに行っていると思います」と幼い字で書いた。小学生時からバスケットの延長線上にあったアメリカへの憧れ。その後漠然としたままだったが、この時だけははっきりよみがえった。
 とはいえ、奨学生に選ばれる自信はなかった。だから、まさかの合格を知った瞬間を今でも鮮明におぼえている。
「高校3年の春になってすぐ、部活の帰りで仲間と自転車で走っている時に、母親から携帯電話に着信があったんです。母親からはめったに電話がかかってこなかったので、少し驚いて出たら『集英社から電話がかかってきて、合格した』と。それはもうびっくり。その場でいっしょにいた仲間に伝えたら『出た出た、噓だろ?』って笑われました」
 応募したことは周囲の誰にも伝えていなかった。だから合格を誰にも信じてもらえなかった。次の日も、その次の日も。『月刊バスケットボール』で紹介されて、初めて信じてもらえたという。
「めちゃめちゃ嬉しかったですね。進路のことを考えても、付属の大学に進んでもバスケの強豪というわけではない。他の大学へ行くにも学力もないし実績もなかった。実力のある大学から声はかかっていませんでした。あのまま日本にいたら大学へ進学しなかったかもしれない。大きなターニングポイントでした」

分からないことだらけ

 合格通知から留学までの約1年間の時間。その間は、語学学校のアテネ・フランセに通い、ひたすら英語の習得に努めた。
 しかし、実際にサウスケントスクールへ入学すると、分からないことだらけだった。英語の発音からして全く違う。
「ラネールっていう名前のチームメイトがいたんですけど、僕が呼ぶとみんなが爆笑するんです。何回言い直しても笑われる。僕はL発音しかできずR発音ができなかった。現地ではこの二つの発音が全く違う。何十回と言ってたら『それが正解だ!』と言われたんですけど、なにが違ってなにが正しいのかも分かりませんでした」
 バスケットも戸惑いばかり。ポジションはガードだが、高校まではどちらかというと好き勝手にプレーしていた。
「システマチックなバスケすら知らずにアメリカへ渡ったので、いろんな面で苦労しました。コーチにはガードとしてコールなどを求められましたが、やり方も知らなければ英語もしゃべれない。それなのに結構できると思っている自分がいました。今ならサウスケントのレベルの高さが分かります。でも、当時は単に無知すぎてレベル差を感じ取れなかったのか、感じていたけど感じないようにしていたのか、とにかく気付けていませんでした」
 最も恐れたことは、チームから孤立すること。そうならないために、自分から仕掛けて話題を振りまいた。
「日本から持参した甚平じんべいをプレゼントしたり、日本語でクリスマスの歌を歌ったり、おかしなダンスをしたり。すごく笑われるんですけど、徐々に『ユキっておもしろいじゃん』とかまってくれるようになって。最初は恥ずかしかったですけど、自ら話題を作ればコミュニケーションがとれる。そのためにはプライドも全部捨ててピエロになろうと」
 1年前には、高校の最上級生として後輩を厳しく指導していた。自分からふざけたことなんてなかった。
 なのに今はピエロに徹している。しかも、そんな自分が意外と嫌じゃない。
「もう自分の本当の性格も分からなくなっちゃいました。文化も違えば感覚も全然違う。笑われることも新鮮で。日本で後輩に厳しくあたる自分、アメリカでピエロになっている自分。自分のなかにもいろんな面があるんだと」
 スラムダンク奨学生の偉大な先輩たちはディビジョン1(DIV1)の大学に進めるだろうと思っていたが、進めていない。それはバスケットの実力なのか、英語の壁なのか、どちらともなのか。
 では、バスケットの実力も劣り、英語も話せない自分はどうすべきなのか。そんな不安と悩みに挟まれながら、とにかく取り残されないためにもがいた。そしていよいよ勝負のシーズンが始まる、その直前に待っていたのが大ケガだったのだ。

光明を見出してくれた「ディフェンス」

 左手親指の手術から復帰までの記憶は、あまりないという。
「勉強は絶対してたと思うんですけど。あと、まだ公式戦でアメリカの本当のバスケを体験してなかったので試合に出たかった。チームに帯同させてもらってましたが、疎外感はありました。正直、焦っていたと思います。だから余計にふざけて明るくしてたような。チームの輪から取り残されたら戻れなくなる……と必死でした」
 結局、復帰までには3カ月を要した。復帰が嬉しくないはずがない。だが、バスケットがプレーできる喜びを嚙みしめられたのも、ほんの短い間だけで終わってしまう。
「現実を思い知らされました。ケガの間は希望もあったんです。復帰したらすごく活躍できるかもしれないと。でも実際は通用しない。それはそれで辛いものがありました」
 英語は相変わらず上達しない。バスケットも通用しない。奨学金で留学させてもらっておいて、この先の進路はどうなるのだろう。一難去ってまた一難。いったい、今の自分になにができるのか―― 。
「必死に考えて、ディフェンスだけはがんばろうと。ディフェンスも能力は必要です。でもオフェンスほど身体能力に頼ることはなく、がんばりだったり、粘りだったりと気持ちでどうにかなる余地がある。そこの可能性にしがみついてました。今思い返しても、ディフェンスで評価してもらって生き残れたんだと思います」


留学早々「奨学金合格から留学までにあった1年間で、英語もバスケも認められるような準備を積めなかったのは甘かった」と反省。さらにケガ─左手の包帯が痛々しい。撮影/スラムダンク奨学金事務局

 年が明け2011年、年初の試合で遂に公式戦初出場。コーチ・ジェフの「前からディフェンスをがんばれ」と言う指示を頑なに守り続けた。実際はPGポイントガードの3番手という位置づけ。チームの調子が良い時ほど出場機会は遠くなる。だが「それでも自分が出ればなにかはできる」感触を得つつあった。
「試合によっては20分ほど出場することもありました。一度、競っている試合で残り1分切ったくらいで出場して、僕のディフェンスからボールを奪ってエースが決めて勝った試合があったんです。自分の手柄というわけではありませんが、ディフェンスの自信を深めた一戦になりました」
 今振り返ると、自分の人生のなかでこの1年間がバスケットの実力を最も伸ばしてくれた期間であったと言い切れる。
「ボールを持っているだけでも大変だったのがサウスケント時代。日本とは違うバスケに対応するだけで精一杯でした。でも、帰国して同級生や先輩のいる大学に練習参加させてもらったら『レベルが全然違うぞ』と驚かれて。たしかに高校時代までとは感覚が全然違ってました。日本に戻っていかに成長したか、初めて分かったんです」
 結局、1年間では英語の成績も伸びず、スカウトから声がかかることもなかった。だが、DIV1の大学への進学は諦めなかった。
「1年の留学生活が終わった時、『まだここでやりたい』と本気で思いました。どうにかすればアメリカでプレーできるんじゃないかって。DIV1へ行くのに学力もバスケも足りないなら短大でレベルを上げて、2年後に4年制大学へ奨学金で転入すればいい。せっかく1年アメリカに行って終わりにするのはもったいないじゃないですか」
 サウスケント卒業後、日本の当時bjリーグのクラブからオファーもあったが、アメリカでの挑戦続行を決意。自費での活動になるが、息子の選択に親も賛成してくれた。

100校に売り込み4年制大学へ

 進学先は『スラムダンク奨学金』第2期生の二人も進んだ、アリゾナウエスタン大学に決めた。しかし1年でアラン・ハンコック大学へ編入する。
「試合に出場できる機会がほとんどなかったので。あと、先輩をはじめとする日本人が多くいた環境に甘えたくなかったこともあります」
 日本人一人の環境には不安もつきまとう。しかし、試合に出て、さらなる英語力上達のために自らを追い込んだ。
 アメリカでは悔しい思いをすることが続いた。アリゾナウエスタン大ではAチーム(1軍)のふがいないディフェンスに怒ったコーチが、
「そんなディフェンスだったらBチーム(2軍)のユキでも得点できるぞ」
 と発言したことにショックを受けた。
 アラン・ハンコック大も1年目は練習生。アリゾナウエスタン大もアラン・ハンコック大もともに2年制の短期大学。アメリカの短期大学では合わせて2年間しか公式戦でプレーできない。しかし、矢代の学力では卒業までに3年必要だった。そのため、アラン・ハンコック大での1年目は公式戦出場資格のない練習生として過ごし、卒業見込みが立つ2年目から試合に出る選択をした。
 どこか流れに乗り切れない日々が続く。数え切れぬ不平不満があっただろう。それでも、取り乱すことなく粛々しゆくしゆくと現実を受け入れ続けた。
 アラン・ハンコック大ではチームメイト6人でのアパートメントシェア暮らし。頼れる日本人はいない。生活に関わる全てを自分で行うようになったこの頃から、英語に対する“息苦しさ”を感じなくなってきた。そしてアラン・ハンコック大2年目は、シーズン最初からスタメンに抜擢される。
「アメリカで初めてスタメンになれて。その時もディフェンスを評価してもらい、コーチの指示をすぐに実践することで出場機会を得ました。その後パフォーマンスが落ちてスタメンを外されてしまうんですけどね」
 卒業が近くなると自らメールとPR用のビデオテープを用意して約100校もの4年制大学に売り込んだ。そのなかで興味を示してくれた複数の大学のうち、最も学費の安かったべサニー大学へ編入することを決める。
 スカラシップを得てのDIV1入りは叶わなかった。だが、執念で4年制大学に進んだ。
「無名の僕が『スラムダンク奨学金』に選ばれて恥をかきたくない。バカにされたくない。『結局通用しなかった』と言われたくなかったので絶対4年制大学まで行ってやると。英語もバスケも、力がないことは分かっていました。見返したかった。だから諦めなかったんです」

『あきらめたらそこで試合終了だよ』

 劣等感は誰よりも持っている自覚がある。じつは、日本トップレベルのスラムダンク奨学生の先輩たちと比べられることを気にしていた。そのことに対する反発心をバネに過ごしたといってもいいアメリカでの6年間。そのなかでも最も成長したという1年目に得たものとは。


反骨心をバネにつかんだスタメン。アラン・ハンコック大では、1年を練習生として過ごした後、2年目から公式戦出場。持ち前のディフェンスを評価された。写真提供/矢代雪次郎

「自分の無力さを思い知らされました。本当になにもできなかった。英語も、バスケもです。でも対等に見て、同じ人間であるアメリカ人たちはできていた。であれば言い訳はできない。なにもできない自分をどうにかしたかったら、結局、自分で証明するしかないんです」
 言い訳を許せば、すぐに楽になれる。だが、自分をごまかせない。不甲斐ない自分を真正面から認めるのは受け入れがたい。しかし、もし受け入れる勇気を持てば自分を変えることができる。
「今もそうです。当時と似ていると感じています。もどかしいですし、恥ずかしいですし、悔しい。情けない。だからどうにか打開しようという思いで毎日やってます」
 べサニー大を卒業後、帰国した矢代はBリーグチームのトライアウトをいくつも受けた。正直、B1レベルだと思っていた。しかし、入れたのはB2の群馬クレインサンダーズ。しかも通訳兼任という条件付きだった。その後愛媛オレンジバイキングス、香川ファイブアローズと渡り歩き、2020年8月からは仙台89ERSに入団するも、ずっと通訳兼任でいる。アメリカで必死に身につけた英語を活用できるのも武器の一つであることは間違いないし、重要な役割であることは重々分かっている。分かってはいるが……。
「本当は選手として契約したい。でもそうならないのは自分の努力不足であり、実力不足。B2で5年目になりますが、結果さえ出せばどこかで変えられたはずなんです」


「結果さえ出していればどこかで変えられたはず」。回顧する際も、堂々と正直に。決して自分をごまかさない。撮影/伊藤 亮

 サウスケント時代を振り返っても、今について語っても、反省の言葉が多く口から出てきた。しかし、反省であっても後悔ではない。後悔は言い訳を残すが、反省は教訓を残す。矢代雪次郎のなかには今、彼しか経験しえなかった数えきれないほどの教訓が詰まっている。そして苦しみから多くの教訓を得た人間には、生半可なことでは動じない“根を張った”強さがある。あとは、その強さがいつ花開くか、だ。
「最近、現実を見始めていて。プロになって5年、29歳になってもなかなか日の目を見られない。センスが本当にないんじゃないか。努力が足りないんじゃないか。毎日思います。ただ、いつ花開くかは分からない。それは今年かもしれないし、次の試合かもしれない。僕はそこに希望を持っていて、なにもできなくなるまで努力しようと。『あきらめたらそこで試合終了』じゃないですか。僕、これまで諦めたことないんです」
 雌伏の時は、今なお続いている。

文中敬称略

COLUMN
♯10 矢代雪次郎

「SLAM DUNK」で
好きなキャラクター、シーンは?


『SLAM DUNK 新装再編版』13巻より

小学生の頃は流川が好きでした。でも今、心に刺さるのは木暮君。3年間がんばってきたのに少ししか試合で使ってもらえない。なのにチームのために献身的で、試合ではちゃんと仕事をする。なんで仕事ができるか。最後まで諦めずに毎日練習してるからですよね。初心者の桜木にスタメンを奪われて、それでも腐らない。かっこいいです。陵南戦の最後は感動しました。『あいつも3年間がんばってきた男なんだ』ってグッときます。自分も試合に出られないなら通訳としてチームの勝利に貢献できるように、という気持ちがあります。大人になって彼の気持ちがすごくよく分かるというか、学ばされます。

© 井上雄彦 I.T.Planning,Inc.

■スラムダンク奨学金とは

『スラムダンク』の作者・井上雄彦の「この作品をここまで愛してくれた読者とバスケットボールというスポーツに、何かの形で恩返しがしたい」という志から始まり、高校卒業後、大学またはプロを目指しアメリカで競技を続ける意志と能力を持ちながら、経済的その他の理由でその夢をかなえられない若い選手を支援することで、その目的を果たそうと設立された。2008年から毎年、高校卒業見込み、またはそれに相当する学生を若干名選考し、現地でのセレクションを経てアメリカのプレップスクールに送り出している。これまでに15名が留学し、多くの選手がBリーグやアメリカの大学などで活躍している。

スラムダンク奨学金
主宰:井上雄彦、アイティープランニング有限会社、株式会社 集英社
協力:公益財団法人 日本バスケットボール協会

矢代雪次郎

やしろ・ゆきじろう
1992年2月15日生まれ、千葉県出身。流通経済大学付属柏高校卒業後、2010年スラムダンク奨学金第3期生として、サウスケントスクールに入学。11年アリゾナウエスタン大学(2年制)に入学、12年にアラン・ハンコック大学(2年制)を経て、14年にベサニー大学(4年制)に編入。帰国後16年に群馬クレインサンダーズ (Bリーグ)に選手兼通訳として入団。以後、17年愛媛オレンジバイキングス(Bリーグ)、19年香川ファイブアローズ(Bリーグ)、今シーズンより仙台89ERS(Bリーグ)。ポイントガード、シューティングガード。177cm、77kg。

『PLUS/SLAM DUNK ILLUSTRATIONS 2』

井上 雄彦 著

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